『二流小説家』(デイヴィッド・ゴードン/ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

二流小説家 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

二流小説家 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 なにゆえぼくらは本を読むのか。子供のころ大好きだった本は、どんな理由で好きになったのだろう。おそらく、大部分の人間にとって、読書は旅なのではないかとぼくは思う。彼らにとっての小説とは、冒険のたびへといざなう翼、まるで自分のもののように思える夢へといざなう翼なのだろう。だが、一部の人間にとって、読書は現実逃避の手段となる。退屈や、孤独や、これ以上耐えられない場所や人間から逃げだすための翼となるのだ。
(本書p190〜191より)

 中年作家のハリーはシリーズもののミステリやSF、ヴァンパイア小説、ポルノ記事で食いつないでいる二流作家。ガールフレンドには愛想を尽かされ家庭教師をしている教え子の女子高生には逆にビジネスパートナーとして面倒を見られる始末。そんなハリーに思わぬチャンスが巡ってくる。かつてニューヨークを震撼させた連続殺人鬼から告白本の執筆を依頼されたのだ。恐れを抱きながら刑務所へ向かったハリーだったが、告白本の執筆に際して予想外の条件を突きつけられる。そして、事件は過去だけでなく現在でも発生して……といったお話です。
 巻末の訳者あとがきによれば、本書は処女作にしてアメリカ探偵作家クラブ賞最優秀新人賞候補作とのことです。
 本書の語り手は、売れない中年小説家ハリーです。そんな彼が連続殺人気の告白本を書くことになった、という体で語られるハリー自身の半生記。それが本書です。連続殺人鬼の半生と裏返しで語られることになるハリーの半生。本来であれば重なることなどあるはずのない二人の人生ですが、芸術家(あるいは表現者)としての生き様ゆえに重なる部分も見えてきます。しかしながら、どうしても譲れない一線があります。それに気付くことによって、ハリーは小説家としての覚悟を再確認します。そのとき、『二流小説家』というタイトルの本当の意味が見えてきます。
 本書には、ハリーが様々なペンネームで書いてきたミステリやSFやヴァンパイア小説、そしてポルノ小説の断片が挿入されています。意地悪な読み方をすれば、作者のゴードンが処女作を執筆するに当たってそれまで書いてきた習作の気に入ってる場面だけを入れてみた、という見方もできます。しかし、それよりも、こうした雑多なジャンル作品を挿入することによって、本書の全体を通してのミステリというジャンルの面白さが異化されているという効果が生じていると見るべきでしょう。
 ジャンルとしても文体としても、そして生き様としても、あっちにふらふらこっちにふらふらして頼りなく思えるハリーであり本書です。だからこそ、そんな彼が幾多のトラブルに巻き込まれ、周囲の女性たちに頼り頼られながら事件を解決して小説家としての覚悟を決めていく姿には胸を打たれるものがあります。本書はメタ・ミステリですが、決して外側に逃避するためのメタではありません。終わりの見えない作家という旅に向かう決意を表明するためのメタです。
 本書をミステリとして読むと、謎解きが唐突だったり真相が少々無茶だったり文中の表現からは見えてこないような視覚に頼りのものが証拠になったりと、必ずしも納得のいくものではありません。しかしながら、ミステリというジャンル、さらにはジャンルというものに対しての向き合い方については非常に興味深い内容が描かれている作品だといえます。多くの方にオススメしたい逸品です。