理解に苦しむ観戦記

 新聞の将棋欄の観戦記を読んで珍しくカチンときたので紹介。2007年4月23日付朝日新聞朝刊8面、第25回朝日オープン将棋選手権五番勝負第1局【第5譜】『俗手の好手』(筆者:東公平)からの引用です。
※ネット上でも記事がアップされました(→こちら)。

「▲5四歩は羽生の新手ではない」と書いたホームページを見つけた。証拠としてアマ強豪同士の棋譜が図面入りで出ていた。棋士たちの深い研究ぶりを知らない人が書いたものだろうが、若い人たちの誤解を招くおそれもあるし、羽生さんの名誉を傷つけることにもなる。新手とはプロの公式戦に現れた手のことで、研究会、奨励会、アマ棋戦などは対象外である。

(以下、ついカッとなって書いた駄文)
 なぜこのような記事の書き方をしているのか理解に苦しみます。まず、ホームページとはこちらこちらのことでしょうね。で、今回の観戦記のタイトルが”俗手の好手”となっていて、実際本譜の▲5四歩はそうした手と言えると思いますが、俗手と表現する以上アマ棋戦で既に指されていたとしても全然おかしくないというかむしろ当然のはずです。一体この記者は何を考えているのでしょうか? 新手という言葉の意味をあくまで純粋かつ客観的に考えるならば時間的な要素とその手の価値のみを基準とすべきで、アマとかプロとかは本来関係ないはずです。しかし、最高峰の研究と頭脳がぶつかり合うのがプロ将棋で、だからこそプロの新手≒新手ではありますが、厳密にはイコールでは必ずしもないわけで、アマ将棋が先を越してることだって十分あり得るでしょう。ただ、地球上のすべての将棋・棋譜を網羅している人間などおよそこの世にいるはずもありません。そういう意味で、新手というものは相対的にならざるを得ません。それくらいのことはいちいち説明しなくてもみんな分かっていることでしょう。ですから、▲5四歩についてだって、プロだと新手、くらいの表現で必要かつ十分なはずなのです。それなのに、なぜこのようにアマチュアを貶めるような、しかも文脈として意味不明なことを書くのでしょうか? アマが指した手を羽生が指したら不名誉なのでしょうか? そんなことはないでしょう。誰が指した、あるいは指すと思われるような手であっても、最善だと判断すれば指す。それこそトップ棋士に求められる思考・発想に他ならないはずでしょうし、”俗手の好手”だってもそもそういう意味の言葉なはずです。
 それに、具体的なプロの研究成果を知ってるアマなど確かにそんなにはいないでしょうが抽象的な意味で現在のプロがものすごい研究をしているということを知らないアマなどまずいないでしょう。例えば最近出版された『最新戦法の話』などはそうした研究の一端が伝わってくる良書です。こうした本だって読まれてるかも知れないのに、”棋士たちの深い研究ぶりを知らない人”などという言葉がどうすれば出てくるのがまったく分かりません。研究会、奨励会、アマ棋戦などに価値はないと言いたいのでしょうか? アマが編み出して升田幸三賞(特別賞)を受賞した立石流四間飛車(参考:Wikipedia)をどのように説明するのでしょうか? とにかく理解に苦しむ観戦記です。こんなこと書くスペースの余裕があるんだったら、もっと▲5四歩の効用について説明すればいいのに……(第6譜以下で説明してるかも知れませんが)。
 一手の価値というのは誰が指したかによって左右されるものではないでしょう。誰が指そうが悪手は悪手ですし好手は好手です。そういうギリギリの一手を指し合って勝負していると思うからこそ、プロの将棋・棋譜を見て感動できるのではないのですか? プロの指した手じゃなければ新手じゃないというような考えは、若い人たちの誤解を招くおそれもあるし、プロ棋士の名誉を傷つけることにもなります。厳に慎んで欲しいものです。
【参考】asahi.com :第25回朝日オープン将棋選手権 五番勝負第1局 - 将棋