『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』(麻耶雄嵩/講談社文庫)

翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件 (講談社文庫)

翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件 (講談社文庫)

 知名度、もしくは傑作(あるいは問題作)と評される割に、ミステリ論において話題になることが少ないのでは? という指摘を受けまして、それには私も共感するものがありましたのでちょっと考えてみました。(いや十分語られてるだろ、という方におかれましては平身低頭するしかありません。)
(以下、既読者限定のネタばれで)
 『翼ある闇』はなぜあまり語られないのか?
 大きな前提として教養主義の崩壊があると思います。インターネットの発達を発端とする情報の氾濫は、ジャンルという枠内に限定してもなお個人の手には到底負えない情報が手に入るようになってしまいました。そのジャンルにおける基本知識と呼ぶべきものを特定することが極めて困難になっています。そうした情報の氾濫が当たり前の状態でデビューした乙一西尾維新といった作家たちは総じて「僕たちはそんなにミステリは読んでいない」と公言しています。こうした世代の作家によって書かれたミステリの場合には、それを楽しむにしろ解釈するにしろ、教養主義の意義はどうしても低くなってしまいます。
 そうした教養主義の崩壊を前提に考えますと、第一に、教養主義の崩壊と本書の特質との関係があります。すなわち、本書が抱える特質として、教養主義が崩壊した現状では正直分が悪いと言わざるを得ないのです。例えば、『ユリイカ 1999年12月号』のインタビューにおいて、著者は『闇ある翼』について次のように語っています。

「クイーンの十作ぐらい読んでいる程度の人が読むための本が一冊くらい出てもいいんじゃないかという気がしたんです」
(『ユリイカ 1999年12月号』p131より)

実際、本書の見立ての趣向はクイーンを十冊くらい読んでないと驚けない、マニア垂涎の仕掛けです。このように著者自身が、本作が教養主義を前提にして楽しむものであることを言明しているわけです。しかしながらそうした目論見は、教養主義が崩壊してしまっている現状で評価されるのはとても難しいです。ただ、クイーンの十冊くらい読んでても罰は当たらないと思いますけどね(笑)
 第二に、教養主義の崩壊と読者(というか感想書き)との関係です。本書は、過剰なまでにミステリにありがちな要素が詰め込まれています。首なし死体に密室殺人、洋風の古城で暮らすお金持ちの一族、さらには家政婦や作男や双生児などなど、いかにも本格ミステリでしかあり得ないような(すなわちミステリ読みが大好きな)ギミックが満載です。そんな事件に探偵とワトソン役の作家が挑戦するという、一見極めてオーソドックスな設定の物語です。ところが、そんなオーソドックスな設定が実は罠なのです。罠なのですが、これが罠だと実感できるのは、実のところミステリをある程度読み込んでいる読者に限られるでしょう。仮にミステリというものにまったく興味のない読者が本書を読んだらどう思うか? これは想像するよりほかないのですが、人がコロコロ死んでいく様を不謹慎ながらも面白く思うかもしれませんし、どんでん返しに次ぐどんでん返しを面白いと思うかもしれません。あるいは、木更津のとんでも推理にポカーンとするかもしれません(笑)。いずれにしても好悪の評価は別にして、その程度(←あえて)にとどまることでしょう。
 これがある程度のミステリ読者が読むとどうなるか。「おいおい、”銘探偵”がすぐ死ぬのかよ」「こいつが探偵なのかよ」といった、ミステリのお約束を逆手に取った趣向に面白さを見出すことができるわけです。こうした趣向について筆を走らせることは、「自分はある程度のミステリ読みである」ということを宣言するに等しいです。ところが、上述のように教養主義が崩壊している現状では、そうした宣言は教養主義者としての十字架を背負うことと同義です。で、評論家としてやってこうと考えているのならともかく、ネットで好きに感想・書評を書いていこうと思っている限りでは、そんな十字架は邪魔なだけです。少なくとも私はそうです(笑)。ということで、読者としてはちょっと語りにくいという事情があると思います。
 感想書きの立場からは、もう一つ別の事情も考えられます。本書は、芦辺拓『紅楼夢の殺人(書評)』にて主張している本来のメタ・ミステリ、すなわちその作品が探偵小説であること自体が探偵小説としての仕掛けにつながっている作品と呼ぶに相応しい作品だと言えるでしょう。こうした作品についての理解を表現するためには、回避しようと思えばできますが、普通は「探偵小説とは何か」ということを表明する必要があります。本来ならそんなの好き勝手に主張してよいのですが、『容疑者Xの献身』論争があまりに不毛なやり取りであったため、一個人のサイト・ブログであってもそんなのに関わるのは真っ平ゴメンという防衛本能が働いて、そうした点への指摘を躊躇わせているんじゃないかと思います。正直、私は躊躇いまくってます(笑)。換言すれば、”本格村の住人と思われることへの忌避”ということになると思います。
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 サイト・ブログに活気は欲しいけど、でも炎上は嫌なのです。もっとも、炎上するほど今のミステリ界に活気があるとも思えませんが……。そもそもうちみたいな辺境で何を書いても炎上するはずもないですが(苦笑)。

 ということで、『翼ある闇』の作品論というよりは、推測ばかりの”本格”ミステリというものが語り難くなっている現状への愚痴といった文章になってしまいました(苦笑)。本書について少しだけ語りますと、私個人としては大変好きな作品です。あまりに被害者が他愛もなく死んでいくので「そりゃないよ」とは思うのですが(笑)、こんな荒唐無稽な展開が許されるのは本格ミステリだけですよね。初めて読んだときは今ほどミステリについて知識も思い入れもなかったので唖然としましたが、再読するととても楽しいですね。『虚無への供物』と同じく、アンチミステリでありながらミステリの傑作として、末永く読み継がれて欲しい一品です。
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