舞城王太郎『JORGE JOESTAR』がいかにハチャメチャで、ハチャメチャでありながらも「JOJO」であるかについて語ってみる。(ネタバレ書評)

JORGE JOESTAR

JORGE JOESTAR

 「JOJO」と「舞城王太郎」を悪魔合体したらとんでもない化け物になった(ただし合体事故に非ず)とでも評すべき「超怪作」、『JORGE JOESTAR』。
まさに「キラークイーン級」の超怪作 舞城王太郎『JORGE JOESTAR』
 どこがどう凄いのか語ろうとすると必ずネタバレに抵触してしまうという何とも書評泣かせの作品ですが、あえてネタバレを交えながら語っていきたいと思います。
 というわけでここから先は「覚悟」のある方のみお進みください。

舞城王太郎ワールド

 ネタバレなし書評でも書きましたが、本作品の舞台は第一部と第二部の狭間。
 主人公は本家本元の「ジョージ・ジョースター」と、福井県西暁町の「ジョージ・ジョースター」。この二人のジョージ・ジョースターの視点が章ごとに切り替わりながら、物語が進められます。
 かたや1904年のスペインの片田舎、かたや現代の西暁町。二人の世界、二つの世界は全く異なっていますが、時空を超え次元を超え、二人の世界、二つの世界は邂逅します。
 舞城王太郎作品の特徴として、「読点を廃した叩きつけ流れるような文体」「行き過ぎた(突き抜けた)エログロ」「SF、ミステリなど様々な要素がこれでもかこれでもかとぶち込まれる、ジャンルにとらわれない作風」などかなりクセがあり、まさに「ハマる人はハマる、ダメな人はダメ」な作家だと思います。
 本作『JORGE JOESTAR』でもその作風はいかんなく発揮され、謎の殺人事件に名探偵、パラレルワールドにタイムスリップとジャンルにとらわれない舞城ワールドが繰り広げられます。
 ジャンルにとらわれない、という意味では新城カズマが提唱する「ゼロ・ジャンル小説」に近いところもありますが、舞城王太郎の作品はテーマも説教もなく、ただただ、読者を楽しませるためだけに書かれている「ゼロ・ジャンル・娯楽小説」であり、この舞城ワールドを下敷きとして「JOJO」の世界が解体・再構築されている印象を受けました。

スーパーJOJO大戦

 ネタバレなし書評で、本作を「スーパーJOJO大戦」と称しました。

 詳細はネタバレになるので伏せますが、まさに「スーパーJOJO大戦」。夢のバトルがあちこちで展開されます。当然ながらすべてのキャラクターが登場するわけではありませんが、読者には「1部から7部まで全てを読んでいること」を前提としたかのような「JOJOワールド」を下敷きとしています。

 なにせ、1部から7部までの様々な登場人物が入り乱れます。
 基本は2部と4部(西暁町のジョースター杜王町に向かいます)。おまけにネアポリスの組織「パッショーネ」も合流します。しかもしかも宇宙行きロケットに乗り込んだジョースターが究極生物カーズまで引っ張り込みます。部をまたいだ様々な登場人物が掛け合いする様はまさに「スーパーJOJO大戦」。夢のバトル、夢の会話が繰り広げられます。ある意味、何でもありの「舞城ワールド」だからこそ実現できたのかもしれません。
 そしてその舞城ワールドの中でもブレない岸辺露伴先生は「安定」の一言ですし、ブレないながらも杉本鈴美とイチャイチャしているので思わずにやけてしまいます。

パラレルワールド、タイムスリップ

 この「スーパーJOJO大戦」では、一部のキャラクタの設定が本家「JOJO」と変わっています。虹村億安が虹村不可思議(←人をおちょくったような名前ですが、いちおう「億」と「不可思議」という数の名称つながりです。兄は「無量大数」)と名前が変わっていたり、ナランチャのスタンドが「エアロ・スミス」ではなく「Uボート」と戦闘機ではなく潜水艦になっていたり。
 本作の世界は「メイド・イン・ヘブン」にて何周かした世界でもあり、「D4C」が行き来する「平行世界」でもあります。
 この「縦横の世界」については、舞城王太郎はまさに自身の作品『ディスコ探偵水曜日』にて言及しています。

うん。大体はっきりした。僕が確かめたい、疑問に思っていることとは、結局こういうことだ。
小さな梢の中にやってきて、十七歳の梢を名乗っている君が、本当に僕たちの宇宙の僕たちの時間の未来からやってきているのか?
舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』文庫版P58)

 『JORGE JOESTAR』はまさに、この「縦横」の行き来を主軸としており、さらに面白いのは「縦移動」を「早送り」の「メイド・インヘブン」と「巻き戻し」の「バイツァ・ダスト」で行い、横移動を「D4C」で行うという、「ラスボスのスタンド」を異なる世界観を移動する「装置」として活用しているところ。なんともうまく、「舞城ワールド」と「JOJO」の歯車が「ガッシリ」とかみ合っています。
 人物や舞台をうまく分解・再構築して新たな「なんでもあり」の物語を紡いでいるのです。

舞城王太郎の「ジョジョ愛」

 杜王町とイタリアがぶつかり1904年のジョージ・ジョースターが現代の杜王町に到着する「なんでもあり」の世界で、カーズとDIOが戦う「なんでもあり」の設定。一見ハチャメチャに見えますし、「ジョジョの世界を壊すな!」と壁に本を叩きつけるジョジョファンもたくさんいることでしょう。
 しかしながら、「素数を数えて落ち着きながら読むと」そこかしこに舞城王太郎の「ジョジョ愛」を読み取ることができます。
 「スーパーJOJO大戦」とはつまり、読者が「すべての部のJOJOを読んでいること」を前提としているわけで、キャラの名前やスタンドなどの「本家」との「差分」はもちろん、「本家」からの「引用」でニヤリとさせ、さらには「舞城王太郎なりの解釈(=こじつけ)」など、JOJOを読み込んでいればいるほど心の中でツッコミを入れながらニヤニヤしてしまいます。
 個人的には、「ザ・ワールド」以外にDIOが持っていた「ハーミットパープル」型のスタンドを、「能力」「能力名」「形状」ともにうまく物語に組み込んでいることに感心しました。
 あと、読みながら思わず「西尾先生、ネタかぶっちゃいましたよ!」と突っ込んでしまったことはナイショです(笑)。
 パロディにするにしても、部をまたがってキャラクタ同士が掛け合いをするにしても、物語を再解釈するにしても、きちんと「JOJO」を読み込んでいなければできません。そういう意味では舞城王太郎は当たり前ですがしっかりとJOJOを読み込んでいるのでしょう。
 一方で、もちろん読者層を考慮して、というのもあるのでしょうが、「行き過ぎたエログロ」を一部封印し、なんというか他の作品に比べたら「手加減」しているような印象も受けます。「キャラを崩すが壊さない」とでも言うべきところが、なんというか「JOJOに対する敬意」を感じます。
 さらには、作品の根底に「ジョースター家とDIOの因縁」を据え、「血族」「血のつながり」が重要なキーワードとなっています。これはまさしく『ジョジョの奇妙な冒険』のテーマそのものであり、とんでもない作品ながらも本作も「JOJO」であるのだと感じました。

人間が人間の問題を解決するという意思の表明が、人間賛歌ってことなんですよ
ダ・ヴィンチ 2012年 08月号「荒木飛呂彦ロングインタビュー」より)

 本作『JORGE JOESTAR』もまた、人間が人間の力で「困難」を乗り越える、「人間賛歌」なのだと思います。



 というわけで、いかに本作『JORGE JOESTAR』がハチャメチャで、ハチャメチャでありながらも「JOJO」であるかについて語ってみました。
 まだまだ語り足りないところはありますが、「こんなのJOJOじゃねえよ!」の御方も、「相変わらずの舞城ワールドいかすぅ!」の御方も、再読しながら「vs」JOJOの妙を楽しんでいただければと思いますし、当記事がその一助となれば幸いです。
ジョジョの奇妙な冒険 1 (ジャンプコミックス)

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ディスコ探偵水曜日〈上〉 (新潮文庫)

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