『サーカス象に水を』(サラ・グルーエン/RHブックス・プラス)

サーカス象に水を (RHブックス・プラス)

サーカス象に水を (RHブックス・プラス)

「サーカスなんて所詮、幻想さ、そのこと自体はちっとも悪いことじゃない。人がおれたちに求めてるのはそれなんだから。それを期待してるんだからな」
(本書p175より)

 映画『恋人たちのパレード』の原作小説です。
 サーカスの大テントに鳴り響く観客の喚声と拍手。そして象による曲芸が始まろうとする矢先に、非常警報マーチが場内に鳴り響く。脱走する動物たちと逃げ惑う観客たち。そして、そんな中ぼくは、「彼女」が彼を殺す場面を目撃する。あれから70年。93歳になったわたしは、移動サーカスの中で獣医兼動物世話係として過ごした3ヵ月半の出来事を語り始める。サーカスの熱狂、芸の出来ない象、口減らしのために列車から捨てられる団員、最愛の女性のこと、そして「あのとき」のことを……。といったお話です。
 映画のタイトルからして本書を恋愛小説と思われる方もおられるでしょうし、もちろんそれはそれで間違った読み方ではありません。本書の主人公ジェイコブとサーカスの花形パフォーマーであるマーリーナとが果たしてどのように結ばれていくのか、そして冒頭に描かれている衝撃的なシーンにどうやってつながっていくのか、それが本書の肝であることは間違いありません。
 だからといって、恋愛要素ばかりを強調してしまうのも、本書の魅力を紹介するに際して片手落ちの謗りを免れないでしょう。本書のメインの物語は主人公が移動サーカスで過ごした3ヵ月半ですが、本書の語り手はそれから70年が経って93歳となった「わたし」です。妻に先立たれ老人ホームで過ごす「わたし」。93歳という年齢を考えれば心も身体もかくしゃくとしたものではありますが、記憶力や判断力の低下を自覚せざるを得なくなってきています。そんな老人にとって、確かに過ごしてきたはずの人生が徐々に幻想となっていきます。
 サーカスも人生も幻想であるならば、それをつなぐものはいったい何なのか。よく知られている哲学の問いに、「誰もいない森で木が倒れたときに、その倒れた木は音を発するといえるのか否か」といったものがあります。実体のない幻想にとって、それが誰かに認識されているか否かは存在意義そのものに直結しています。サーカスも人生も、観客なり聞き手の存在によって始めて意味をなす、ということだと思います。そして、誰もが人生における語り手であり聞き手であって、それが友情だったり恋愛だったりするのでしょう。薄れゆく記憶の中で、これまで語られてこなかった物語の聞き手を希求する思いが、本書の語りを切実なものにしています。
 サーカスと老人ホームというふたつの時間軸によって、本書の読み味は複雑なものとなっています。メインのパートであるサーカスの物語だけですと、人間と動物の関係についてそんなに思い悩むこともないでしょう。ですが、70年後の「わたし」が、老人介護施設で受けている意に沿わない食事や薬を摂らされているといった現実が併せて描かれることで、「人間性とは何か?」といったテーマが自ずと浮かび上がってくる構成になっています。また、93歳となった「わたし」は自由を望んでいますが、その一方で、主人公が両親を失ったのは認知症の老人による自動車の危険運転が原因です。広い意味でも狭い意味でも、清濁を併せ呑んだ物語です。
 大恐慌時代のアメリカの厳しい現実と、さらにサーカスという特殊な世界での不条理な労働生活は、いわゆるブラック企業を想起させますし、そういう意味で現代においても共感できる要素が多分にあるお話ともいえます。もっとも、そんな世知辛い読み方をせずとも本書は十分に楽しめますが、そこはかとなく冒頭に仕掛けられているミステリ的要素も含めて、それだけ間口が広いお話であることは確かです。多くの方にオススメしたい一冊です。