『将棋太平記』(倉島竹二郎/河出書房新社)

将棋太平記

将棋太平記

定跡は先哲の苦心の跡、これはぜひ知らねばならないが、これを生かすも殺すも人にある。何事にも捉われがあってはならぬ。
人によって気風があり、その長所を伸ばすことは必要だが、これに捉われすぎてはならぬ。攻めるべきを攻め、守るべきを守る、これが永遠不易の戦いの法だ。どうじゃ、わかったかな?
(本書p75〜76より)

 将棋の観戦記者でもある著者が、昭和23年〜24年にかけて新聞小説として連載していたものの復刊本です。昭和49年に一度復刊されていますが、そのときに棋譜が追加されるとともに文章も手直しされたそうですが、本書(河出書房新社版)での復刊に際しては初刊である昭和24年版を底本にしながらも新仮名遣い・新字に改められ、棋譜はそのまま掲載されています。なお、冒頭には菊池寛小島政二郎木村義雄の3名からの序文が添えられています。
 江戸末期の将棋界は家元派と在野派とが華々しい戦いを演じていました。そんな当時の世相と将棋界の雰囲気が活き活きと描かれている傑作将棋活劇です。本書の主人公は市川太郎松です。上野房次郎(後の伊藤宗印)との将棋に敗れた太郎松は京都で賭け勝負に明け暮れていましたが、とある客人との将棋でコテンパンに負かされます。一念発起した太郎松は天野宗歩に弟子入りして房次郎を倒すための修行に励みます。
 主人公である市川太郎松を通して描かれる勝負の機微にお絹との純愛も絡んできて、非常に読みやすい物語に仕上がっています。その一方で、豪華な脇役たちの描写にも目を見張るものがあります。特筆すべきはやはり太郎松の竹馬の友にして師匠でもある天野宗歩でしょう。在野派を代表する大棋士として在野の棋士をまとめる指導力、太郎松を一人前の棋士とすべく鍛え直す包容力と突出した棋力。さらには将棋を芸道として高め極めんとする将棋指しとしての心得。時代を超えた棋士として知られる天野宗歩ですが、その存在感は作中でも圧倒的です。
 家元派と在野派との対立の背景として印象深いのが、p60〜63にかけて語られている檜垣是安のエピソードです。在野派の彼が作り上げた苦心の結晶こそが「雁木の駒組」です。柴田ヨクサルの将棋漫画『ハチワンダイバー』においては二こ神さんが得意としている戦法として知られている「雁木」ですが、こうした時代背景に接しますと、プロを負かしたアマチュアである二こ神さんに雁木の看板が背負わされているのも納得です。それはとても重い看板なのです。
【参考】ハチワン=081=オッパイと読んでしまう人のための『ハチワンダイバー 2巻』将棋講座 - 三軒茶屋 別館
 ちなみに、本書は小説ではあるのですが、一部の将棋には棋譜と盤面とで将棋の内容が説明されています。純粋な小説としての技法にこだわるのであれば邪道なのかもしれませんが、将棋の内容を分かりやすく伝える役割と同時に、作中の将棋の勝負の臨場感を伝える役割を実に効果的に果たしています。これによって、特に物語終盤での天野宗歩対大橋宗萊との御城将棋はとても濃密なものになっています*1。物語として将棋を伝える際の工夫として、こうした試みはもっと評価されて良いと思います。
 小説好きの方にも将棋好きの方にもオススメの一冊です。
(以下、本書の将棋について一箇所だけ解説を。)



 なお、p21の第2図ですが、この手の前後が何ゆえ嵌め手でどこが罠なのかの説明がなされていないので、微力ながら考えてみました。問題の図はこのようなものです。
●第2図

 下手が主人公の太郎松。上手が謎の客人です。この局面は、上手の△8七龍の王手に対し▲7七桂△同龍を入れてから▲4八玉としたものです。なぜ単に▲4八玉としなかったのか? そこに罠が隠されています。
 ここで本書では、

(注:第2図で客は△7二金と打つ。この手で△3六桂と打つと、太郎松の仕掛けた罠にはまる)
(本書p21より)

とされているのみです。これはどういうことかといいますと、一見すると△3六桂の王手は美味そうな手に見えます。実際、△3六桂の王手に対して下手玉はどこに逃げても詰みです。なので▲同飛とするよりなく、△同銀となった局面で下手玉は受けなしです。ところがその進行は、△同銀以下、▲6四桂△同銀▲6三銀からなんと上手の玉が詰んでしまうのです*2。こうした詰み手順を呼び込むためにあえて▲7七桂△同龍として相手に桂馬を渡して自分の手駒に桂馬が入ることを期待したわけです。それが嵌め手であり罠ということなのだと思います。ご意見等ございましたらご指摘いただければ幸いです。
 ちなみに、この将棋は内藤國雄八段(当時)が作成したとのことですので、ご参考まで。

*1:正直、太郎松と房次郎の将棋を喰ってしまっています。

*2:▲6四桂△同銀▲6三銀△同玉▲6二金△5三玉▲6一金△5二玉▲6二角成△4一玉▲5一金△3二玉▲2三歩成△3一玉▲4三桂不成△同金▲3二歩△4二玉▲5二馬まで。