『王狩1巻』将棋講座

王狩(1) (イブニングKC)

王狩(1) (イブニングKC)

 『王狩』(青木幸子/イブニングKC)1巻が刊行されましたのでヘボアマ将棋ファンなりに解説してみたいと思います(イブニングで青木幸子による将棋漫画『王狩』の連載がはじまったよ!と一部重複する内容もありますがご容赦を)。

作中に登場する将棋・棋譜について

 将棋の局面・棋譜などについて分かる範囲で少々。
 表紙カバー絵に槍を持った杏の絵と香車(俗名で槍とも呼びます)の駒が描かれていますが、これは杏のイメージが槍だからです。

日佐のイメージが弓で高辻が日本刀、杏が槍です。「杏」香車が敵陣に入って成った「成香」の簡易表示です。たぶんおじいちゃんが命名したのでしょうね。香車は前にだけ進める駒ですが成ると廻りを見渡すことを覚え、後に下がる事もできるようになります。まだ杏は当分、成れなさそうですね。
うろうろゆらゆら:雨はわりと好き。より

 第1話p33の局面は第21期竜王戦7番勝負第7局:羽生‐渡辺戦が元ネタとなっています。

 p34で杏の祖父である一馬が本を見ながら再現している局面は中飛車対飯島流引き角戦法ですが、これはおそらく本作の棋譜監修を担当されている飯島栄治七段(棋士紹介*1の『飯島流引き角戦法』もしくは『新・飯島流引き角戦法』が元ネタと見て間違いないと思われます*2ので参考まで。
 p35〜36の棋譜は、1994年の王将リーグ:羽生‐村山戦の42手目から47手目・55手目だと思われます*3のでこちらも参考まで(将棋の棋譜でーたべーす:1994年王将戦 羽生善治‐村山聖)。
 第3話p81高辻(上手)対久世(下手)の香落ち戦の投了図です。

 ▲7五桂は△9六歩▲同玉△9五龍の詰めろを防ぎながら▲8二銀成△同玉▲7二金△9三玉▲8二銀△9四玉▲8五銀△同玉▲8六金打△8四玉▲8五金打までの詰めろをかけた手、つまり「詰めろ逃れの詰めろ」です。上手の攻めはこれで切れてしまっていて△同歩としても▲7四桂の詰めろがこれまた受けにくく下手の玉に迫る手もありません。投了もやむなしでしょう。
 第4話p96で紹介されている王偉戦最終局▲5七銀には元棋譜があります。第37期名人戦七番勝負第4局:中原誠名人対米長邦雄棋王戦がそれです。

 まさに将棋界では伝説級の一手です。googleの検索ボックスに中原誠と打ち込むと「中原誠 5七銀」と検索候補が表示されるくらい有名な手です(参考:将棋の棋譜でーたべーす:1979年名人戦第4局 中原誠 - 米長邦雄)。
 第8話p181〜182で並べられている▲稲森五段対△清洲王翔の将棋の盤面です*4

 この局面で稲森会長が検討で指した手が▲1七飛。日佐が示したのが▲5四歩です。ちなみに、この将棋には元棋譜があります。2005年順位戦:飯島栄治対山崎隆之戦がそれですので参考まで(参考:将棋の棋譜でーたべーす:2005年順位戦:飯島栄治 - 山崎隆之)。
 他にも何か作中の棋譜や盤面について何かご存知の方がおられましたらコメント欄等でご教示いただければ幸いです(ペコリ)。

『王狩』の背景について

 『王狩』第1話で日佐はiPhoneを使って将棋を指しています。iPhoneの将棋アプリが発売されたのは2009年になってから。そして、物語は第1話から6年後になってからが本番です。つまり、『王狩』は今より少し未来を舞台にした物語ということになります。これは些細なことのようでとても大事な点です。
 女性を主人公とした将棋漫画の先行作品に『しおんの王』(安藤慈朗かとりまさるアフタヌーンKC)があります。その『しおんの王』の中でも述べられていますが、女流棋士女流棋士 (将棋) - Wikipedia)と女性棋士は異なる存在で、女性のプロ棋士が誕生したことは未だありません。『王狩』は奨励会新進棋士奨励会 - Wikipedia)を舞台に久世杏や綿貫毬乃といった少女が奨励会で戦い女性棋士になるための戦いと、その裏にある大人たちや棋士たちの思惑が描かれています。
 女流棋士については今も昔も様々な問題があります。中には、ここで書くのはどうしようかなぁと躊躇うような出来事もあります。ですが、そうした過去の問題を抜きにして、とにかく未来志向で少年少女たちの戦いを描こうというのが、本書の舞台を今より少し未来とした作者の意図だと思うのです。なので、私もここでは女流棋士についての過去の問題にはあえて触れないことにします(興味のある方は各自お調べください)。いずれ作中でも問題が起きるのかもしれませんが、そうしたことも含めて今後に期待したいです。そんな本作への期待は、実は現実の将棋界への期待でもあるのですが……。
【関連】そろそろ『しおんの王』について語っておくか - 三軒茶屋 別館

しおんの王(1) (アフタヌーンKC)

しおんの王(1) (アフタヌーンKC)

高速道路論について

トップ棋士はなにが違うんだろう
一人で研究会で 一手ごとの変化をおいつめ
パソコンで棋譜を調べ検討をくりかえす
そういう努力なんてプロ棋士ならあたり前
なぜ結果に圧倒的な差がつくの
(本書第2話p64より)

 将棋が強くなるための環境はここ10年あまりで急速に整いました。そうした環境や状況の変化について『ウェブ進化論』(梅田望夫ちくま新書)では、羽生善治名人の「高速道路」論という非常に興味深い考えが紹介されつつ説明されています。

「ITとネットの進化によって将棋の世界に起きた最大の変化は、将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれたということです。でも高速道路を走り抜けた先では大渋滞が起きています」
(『ウェブ進化論』p210より)

 定跡研究成果、棋譜、盤上の技術といったものはプロ棋士に広く共有され、今やアマチュアにも広く開かれています。さらに、「将棋倶楽部24」をはじめとするネット将棋道場という実戦の場も用意されています。こうした状況を総合して「将棋が強くなるための高速道路が一気に敷かれた」(『ウェブ進化論』p211より)と評されているわけですが、その結果、今や高速道路に乗って将棋の勉強をすることでかなりのレベル、具体的には奨励会二段くらいまでは誰もが強くなることができる環境がネットによって整備されたといいます。
 しかし、そこから先にはその強さまで到達した者たちによる厳しい競争が待ち構えています。それが「大渋滞」です。つまり「高速道路」論とは、一定のレベルまで一気に強くなることができる環境と、そこから先の「大渋滞」というべき競争の激化との二つの状態を指す考え方です。そして、その「大渋滞」から抜け出すにはどうしたらよいのかというのが、今の杏にとっての、そして『王狩』という作品のテーマということになります。
 ちなみに、「大渋滞」から抜け出す方法について、羽生自身は「けものみち」や「野生」といった単語をキーワードに『シリコンバレーから将棋を観る』(梅田望夫中央公論新社)にて次のようなことを述べています。

羽生 そうです。将棋の世界においては、そうなんです。この時代の、世の中全体の流れの中にあって、周囲がどんどん舗装され、その影響があるにもかかわらず、まだまだ未踏の部分があるんだなぁ、と思えるのが、驚きでもあり、深みを感じるところでもあります。
(中略)
梅田 人間の直観力がすべてを左右する。「けものみち」はそういう世界だということですね。計算や論理の力以上に。その感覚こそ、人間に残された、最後の聖域。
(中略)
梅田 そうか。野生的な勘を研ぎ澄ましながら、保守的にならず、あえて積極的に出ていくという部分は、理性で組み合わせていくと。なるほどね。面白いですねえ。
羽生 (中略)つまり、同じことを繰り返すこと自体には、さほどの意味はないんです。本質的ではない、というか。やっぱり日々、まったく同じ人たちとたくさん対局を重ねていく中で、何か違う発見があるとか、違う道が見つかるとか、可能性を探し続けていくことが鍵になるんだ、という気持ちをだんだん持つようになったんですね。
(『シリコンバレーから将棋を観る』p257〜260より)

 「大渋滞」から抜け出す具体的な方法はわかりません。それでも、パソコンやiPhoneが当たり前のように将棋の研究に活用され、棋譜や定跡研究といった情報がデータベースによって共有されていく中において、そうしたキーワードは『王狩』内においてもやがて出てくるのではないかと思われます。『王狩』の”狩”という文字にはそうした意味合いも込められているのではないかと思っています*5
【関連】文芸版「高速道路論」 - 三軒茶屋 別館

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)

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シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

シリコンバレーから将棋を観る―羽生善治と現代

記憶力と枝刈り

 杏は2歳の頃の出来事も完璧に記憶しているという並外れた記憶力を有しています。女性最年少の10歳で奨励会6級に入会し勝率8割を超え現在2級という成績の裏にその圧倒的な記憶力があったことは間違いないでしょう。将棋が強くなるためには勉強が欠かせません。定跡を覚え有力な実戦譜を覚える。それが強くなるための近道であることは間違いありません。しかし、それは上述のような「高速道路の大渋滞」に他人より少し早く到達できるということにしか過ぎません。だからこそ杏は焦りを覚えています。自らの記憶力に「無駄」を意識し、さらに強くなるために必要な「何か」を追い求める。それが今の杏の課題です。
 そこで思い起こされるのが、コンピュータ将棋が行なっている”枝刈り”という考え方です。

山本 枝刈りは、将棋に限らずチェスやオセロでは共通の研究がされていて、様々な方法が考案されています。今回はその中から、特に将棋と相性のいい枝刈り、「null-move pruning」を紹介します。言葉の意味は、「パスを用いた枝刈り」というところでしょうか。
片上 パス?
山本 そうです。パスです。繰り返しになりますが、人間はある局面を見たときに妥当な指し手、そこそこいい手がパッと浮かびます。これが人間の読みの大きな特徴であり、また読みの量を減らす隠れたポイントでもありました。そして実はコンピュータも、ある局面で妥当な指し手がパッとわかれば、読みの量を減らすことができます。
 null-move pruningは、そのためにパスを使う枝刈りです。パスは妥当な指し手の代表といっていいでしょう。
(中略)
山本 普通、人間は▲6一金や▲2六飛といった手を切り捨てて考えるので、パスが悪い手に見えてしまいます。しかし、コンピュータの視点からすると、パスは非常に都合のいい手なのです。なぜなら、具体的な手がわからなくても、いつでも指すことができて、しかも大抵の合法手よりは「いい手」になるのですから。
 これを利用してコンピュータは読む量を減らし、より先まで読むことを可能にしています。
(「将棋世界」2010年4月号所収「コンピュータは七冠の夢を見るか?」p174〜175より)

 コンピュータと人間を比較したときに人間の長所とされるのは、良さそうな手を瞬時に判断すると同時に悪そうな手を瞬時に切り捨てることができる直感的判断力にあります。そうした直感をいかに作りだすかがこれまた問題となりますが、羽生善治名人は直感は経験で磨くことができる、と述べています。これから杏がいかに強くなっていくのかは分かりません。ただ、忘れることができないのであれば意識的に切り捨てるしかないのではないかなぁと。そんなことが今後の展開に多少なりとも絡んでくるのではないかと思っているのですが、いずれにしても続きがとても楽しみです。
【関連】「将棋の手はほとんどが悪手である」(羽生善治) - 三軒茶屋 別館

将棋世界 2010年 04月号 [雑誌]

将棋世界 2010年 04月号 [雑誌]



【関連】
『茶柱倶楽部 1』(青木幸子/芳文社コミックス) - 三軒茶屋 別館
『王狩2巻』将棋講座 - 三軒茶屋 別館

*1:奇しくも本書の発売日であった22日に七段に昇段されました。

*2:恥ずかしながら私は未読未入手です(汗)。機会があったら確認して追記します。

*3:参考:http://twitter.com/mtmt81/status/10923517182

*4:▲2六歩△3四歩▲7六歩△3二金▲2五歩△8八角成▲同銀△2二銀▲3八銀△3三銀▲1六歩△9四歩▲9六歩△1四歩▲3六歩△7四歩▲3七銀△4四歩▲7七銀△4二飛▲6八玉△6二玉▲5八金右△7二銀▲7八玉△6四歩▲6六歩△6三銀▲8八玉△7二玉▲7八金△6二金▲5六歩△7三桂▲4八銀△4一飛▲5七銀△5四歩▲8六銀△6一玉▲6七金右△5二玉▲7五△同歩▲同銀△7四歩▲8六銀△8四歩▲7七銀△8五歩▲3七桂△8一飛▲4六銀△4二玉▲5五歩△同歩▲同銀△5四歩▲4六銀△5三金▲5八飛△4三金上▲2八飛△3二玉▲1五歩△同歩▲1三歩△同香▲1二歩△2二銀▲2四歩△同 歩▲同飛△2三歩▲2八飛△1六歩▲1一歩成△同 銀▲1五歩△4九角▲2六飛△1五香▲2五飛△6七角成▲同金△2四金▲2六飛△6五歩▲同歩△1七歩成▲6四歩△同銀▲6三歩△6六歩▲同銀△8六歩▲同歩△6五銀▲5七銀右△8七歩▲同玉△8五歩▲7八玉△6六銀▲同銀△6五歩▲7七銀△2七と▲同飛△1九香成▲7二角△8二飛▲6一角成△6六香▲同銀△同歩▲同金△6五銀▲6七玉△5五歩▲同金△6六銀打▲5八玉△5六歩▲4六銀△5七歩成▲同銀△5五銀まで。ちなみに、作中の棋譜は右左といった表記が一部抜けているため、そのままだとうまく並べられませんのであしからず。

*5:ちなみに、『3月のライオン』の”ライオン”にもそんな意味合いが込められているんじゃないかと思ったりです。