『光車よ、まわれ!』(天沢退二郎/ピュアフル文庫)

光車よ、まわれ! (ピュアフル文庫)

光車よ、まわれ! (ピュアフル文庫)

 わたしはときどき、ひょっとしてわたしって、自分が思っているよりずっとずっと強いのかも、と思うときがある。その「強い」っていうのは、冷たいとか、むごいとか、自分勝手とかわがままとかに通じるナニカで、あまり良い意味のことじゃないから、ふだんは気づかないふりをしているんだけど、ときどきそれがふっと出る。いま、ここで出た。
 わたしは子どもだ。だからやっておかなくちゃならないこともある。
 おとしまえをつける。
(『電脳コイル 1』(宮村優子磯光雄トクマ・ノベルズEdge)p67より)

 復刊ドットコムで280票以上ものリクエストを集めた児童文学の名作が文庫版で入手可能になりました。
 一言で言って、よく分からないお話です(笑)。ある日突然姿を変えたクラスメート。身の回りに起きる危険。そうしたものに立ち向かうために3つの《光車》を集めなけらばならない、とストーリー自体はシンプルですが、その設定には省かれてたり不明瞭な点が多々あって、設定厨の方にとってはさぞかしストレスが溜まるであろう展開だと思われます(笑)。ですが、そもそも子供にとって社会とか世界とかはよく分からない存在なのですから、何もかも説明する必要はありません。そうしたところから児童文学の寓意性といったものもまた生まれてくるのだと思います。
 物語の鍵を握るアイテム《光車》は、フラクタルな図形のようなものとして表現されています。車輪のかたちをした色の粒のかたまりが全体としてひとつの車輪を作っています。それが《光車》です。これだけ見ると綺麗なもののように思えますが、作中ではこの《光車》が脳みそになぞらえて表現されたりもします。
 主人公の一郎たちの暮らしている町の様子は地図も付いて具体的に描写されています。子供にとって自分たちの町=世界です。そこから新たな世界への扉を開いてくれるのが物語の力です。
 ひとつの世界が大きな世界を作り、その世界もまた別の大きな世界の一部として存在している。シチューの鍋のにんじんに光の輪を思い浮かべ、人間の体をひとつの都会と考える世界のかたち。内に深く外に広くイメージされていく世界観。思春期の反抗期にありがちな自己の内面と外界との対立といったモデルではなく、内が外となり外が内となって作られていく世界。極めて抽象的ではありますが、本作が児童文学の名作とされているのも分かる気がします。
 巻末の作者おぼえがきにもありますが、本書では善悪二元論をとりあえずの足場としつつ、それ自体が徐々に崩れていく様子が描かれています。学校の友達や先生、親兄弟の、突然の変化や別れへの戸惑い。寂寥感。そういったものが事件が解決した後も心の中に残り続けます。時が流れて、光の車輪が電脳のコイルになったとしても、子供の頃に見ている景色には変わらないものがあるはずです。そういったものを表現してくれている作品なのだと思います。

電脳コイル〈1〉 (トクマ・ノベルズedge)

電脳コイル〈1〉 (トクマ・ノベルズedge)