『贋金つくり』(アンドレ・ジイド/岩波文庫)

贋金つくり (上) (岩波文庫)

贋金つくり (上) (岩波文庫)

贋金つくり (下) (岩波文庫)

贋金つくり (下) (岩波文庫)


絶版本を投票で復刊!

 『贋金つかい』と訳されているものもあるらしく翻訳的にはそっちの方が正しいっぽいのですが*1古書店に足しげく通うことでようやく入手したものなので、本記事内では『贋金つくり』で通させていただきます(笑)。本書の対となる作品として『贋金つくりの日記』というのがあるみたいですがそっちは未読未入手ですので予めご容赦を。
 本書は、いわゆるメタ・フィクションの技法を用いた作品の元祖*2として知られています*3。その構成はすこぶる変わっています。三人称多元視点の多用による視点の切り替えは、物語における主人公といった軸となる人物の存在を許しません。そして、幾様に切り取られた断面から語られる人間模様は人間と人間関係の一面的な解釈というものをも否定します。
 本書には『贋金つくり』という題の小説を書こうとしている作家が登場します。エドゥワールという名のこの作家はいかにもジイド自身がモデルと思われる人物なのですが、となると本書そのものがこの作家の書いた『贋金つくり』という作品なのかといえばそうとも言い切れなくて、なぜなら作中にその作家の日記とか小説(『贋金つくり』)の断片とかが出てくるからです。さらに物語の半ばの「作者、登場人物を批判す」というパラグラフでは文字通り作者自身が顔を出して登場人物を批判し出します。そこでもっとも槍玉に上がっているのは他ならぬエドゥワールです。本書の構成は3層構造になっていますが、各層の関係は錯綜していて実態を把握するのはとても困難です。しかしながら、これがとても面白いのです。
(以下、長々と。)

現実と表象との間の競合

 このような複雑な構成を用いることでジイドが描こうとしたものはいったい何なのか? それはずばり「小説」というものについてです。

 小説から、特に小説本来のものではないあらゆる要素を除き去ること。先ごろ、写真が、ある種の正確な描写に対する苦労から絵画を解放したように、近い将来、おそらく蓄音機が、写実作家のしばしば自慢する写実的会話を一掃することになろう。外部の出来事、偶発的事件、外傷的疾患は、映画の領分で、小説はこれらのものを映画に任せて置けばいい。人物の描写でさえ、本来小説に属するものとは私には思えない。
(本書上巻p101より)

 私は何一つ創造することができなかった。しかし、モデルを相手に、こんなポーズを取ってくれ、こんな表情をしてくれと注文する画家のように、私は現実の前に立っている。だから、社会が私に提供してくれるモデルは、それが何によって動かされるかがわかれば、私の意のままに動かすことができる。少くとも遅疑逡巡しているモデルにある問題を提出することができる。モデルは彼らなりにそれを解決するだろうから、彼らの反応の仕方によって得るところがあるはずだ。自分が小説家なればこそ、彼らの運命に介入したり働きかけたりしたい欲求に悩まされるのだ。もし私にもっと想像力があれば、複雑な筋を仕組むことだろう。どころが、私はそういうやり方に反旗をひるがえし、まず事件の登場人物を観察して、彼らの言うなりに仕事を進めるのだ。
(本書上巻p153より)

 私の作品の《根本の主題》とでも呼ぶべきものが、どうやらわかりかけて来た。それは、現実の世界と、現実からわれわれが作りあげる表象との間の競合である。いや、多分そうなるだろう。外界はわれわれに自分を押しつけてくるし、われわれはそれぞれの解釈を外界に押しつけようとする、その押しつけ方が、われわれの生活のドラマをなすのだ。
(本書上巻p271より)

 本書は、贋金使用事件と少年のピストル自殺という2つの新聞記事に着想を得て書かれたとされています。実際、作中ではそうした事件が発生します。その意味で、本書は現実の世界から着想を得たリアリズム小説の一面を有しているかに見えます。しかしながら、メタ的な構成によってその現実性はあっさりと否定されます。その一方で、まったくの作り物であることも、同じくメタ的な構成によって否定されています。まさに、”現実と表象との間の競合”が描かれています。リアリズムでもなければ象徴主義でもない「小説」を書こうとした結果として、本書のような捩れた構成の作品が出来上がったところがとても面白いと思います。

小説に奥行きを求める試み

 その他にも、ジイドは既存の小説におけるアンチテーゼ的な試みを本作に施しています。

 自然主義者は、《人生の断片》ということを言った。この派の大きな欠点は、その断片を、常に同じ方向、つまり時間の方向に、縦に切っていることです。なぜ、横に、奥行に切らないのか? 僕は全然切りたくないのです。解りますか、僕はその小説の中に、何もかも入れようと思うんです。内容を、ある範囲に決めるために、鋏を使うことをしないのです。
(本書上巻p246〜247より)

 僕が狙っているのは、フーガの技法といったものなんです。それで、音楽で可能なことが、なぜ文学で不可能なのか、合点がいかないのだが……
(本書上巻p251より)

 小説に奥行きを求める試み。縦ではなく横に切る試み。先行する主題と後続する対偶主題によって膨らむイメージに身を委ねる快楽。それまでにも小説の奥行きを楽しもうという試みがなかったわけではありません。小説を原作とした劇作などはそうした例に当たるでしょう。小説を読めばストーリーは分かるのに、にもかかわらず何故それを元にした劇作を観たいと思うのかといえば、そうしたフーガを楽しむかのような喜びがあるからでしょう。しかしながら、小説家としてジイドはそれでは満足できなかったのだと思われます。

 劇作家がその人物を描写しないのは、観客が舞台の上に彼らの生きた姿を見られるからだなどと思ってもらっては困る。なぜなら、われわれは幾度舞台で俳優に邪魔されたことだろう。そして、俳優さえいなければ実に正確にイメージをつかんでいるのに、その人物に俳優が似ても似つかぬことに、幾度苦しめられたことだろう。――小説家は、通常、読者の想像力に十分の信頼を置いていない。
(本書上巻p101より)

と述べられているとおりです。だからこそ、ジイドは何もかもを自分で描いてみたかったのです。三人称多元視点の多用はそのためのものです。
 同一の時間軸上でのパラレルワールド的な構成で描かれたサウンドノベルひぐらしのなく頃に』。同じくパラレルワールドを小説というかたちで著した森見登美彦四畳半神話大系』。虚実が曖昧なまま可能性の総体としての未来が描かれていく歌野正午『世界の終わり、あるいは始まり』。いつまで経っても物語が進展しないまま登場人物ばかりが増えていく上遠野浩平の『ブギーポップ』シリーズ。フーガ的な効果を狙った筒井康隆『ダンシング・ヴァニティ』。また、小説とはいえませんがマルチエンディングを採用しているADV(エロゲ含む)などなど。これらの作品は、ジイドの言うところの”奥行き”というものを描くことをそれぞれに意識した作品だといえるでしょう。

人物の造形

 性格上の矛盾。小説あるいは劇で、終始一貫、人々がかくもあろうかと予想した通りに行動する登場人物。……人は、この終始変わらぬことを賞めろという。しかし、私は反対に、そういう人物を、人工的であり、造り物だと認定する。
 と言って、私は矛盾が自然さの確かな印だと主張するわけではない。なぜって、特に女性の場合、わざと矛盾を装うこともよく見られるからだ。他方、これは滅多にないことだが、いわゆる《首尾一貫した精神》に感心することがある。
(本書下巻p155より)

 首尾一貫した性格を持たせると造り物めいてくる。だからといって矛盾した性格にしてしまうと支離滅裂になってしまい破綻した人物造形になってしまう。ジイドはそうした状況を打開する意味でも視点の切り替えというのを効果的に用いています。視点の切り替えによって、ある人物がどの人物と向き合っているかによっていかに言葉や態度が異なってくるかが自然と表現されています。また、レベルの異なる視点からの言及によってその人物の性格上の変化も指摘されて、それによって読者は人物の同一性を認識することができるようになっています。実に巧妙な手法です。
 予断ですが、こうした小説における人物造形の問題を大胆に克服しているのが今のライトノベルだと思います。まず、イラストによる登場人物の可視化によって性格の束としての登場人物を読者に認識させています。また、これは書き手と読み手との暗黙の了解とでもいうべき事柄というべきですが、いわゆる”ツンデレ”や”クーデレ”といった性格の記号化・属性があります。そうしたものはそのキャラの性格が造り物であることを露骨に示すものではあります。しかしながら首尾一貫させてしまうとやはり造り物になってしまいますし多面性を持たせれば破綻してしまうのは上述の通りです。どっちに行ってもままならないのであれば、書き手と読み手の双方が妥協点を探った結果として生まれる人物造形。それが例えば”ツンデレ”というものではないかと思ったり思わなかったりしました。



 上記のように、本書は「小説」というものを主題とした観念的な作品ではありますが、しかしながら、単なる思考実験のみが売りの作品なのかといえば、そんなことは断じてありません。本書には人間の喜びと哀しみがたっぷりと詰め込まれています。愛すること、愛されること。そうした気持ちが率直に示される場合もありますが、しかしながら大抵の場合には屈折していて、そこには悲喜こもごものドラマがあります。エドゥワールが若者に向ける目線やオリヴィエの性格などはぶっちゃけ腐女子向け的な狙いがあるとしか思えませんし、カップリングには事欠きません(笑)。
 贋金はいくら実物に似せて巧妙に作っても所詮は贋金でしかありません。実物となる貨幣が新たなものに変わってしまえば贋金はあっという間に無価値なものになってしまいます。小説もまた同じです。小説によっていくら現実を描こうとしてもしょせんは虚構に過ぎません。それに、今日の世代にしか訴えないものを書いて短期的には喜ばれたとしても、世代が変わればそれは滅んでしまいます。
 もちろん、その時代時代の市場を狙い撃ちした本を書くのも立派な選択肢のひとつです。ですが、そうした本を刊行することに、あたかも贋金を大量に刷るような後ろめたさや不安を感じたりはしないでしょうか。本書のタイトルにはそうしたニュアンスも含まれています。
 メタ・フィクションの古典としてはもとより、多様な愛憎の物語としてもオススメしたい逸品です。

*1:下巻の訳者あとがき参照

*2:1926年刊行

*3:本の森の旅人』(筒井康隆岩波新書)にて筒井康隆が、メタ・フィクションもしくは超虚構の具体的な作品して自身の知る限りでは「贋金つかい」が一番古い例ではないかと述べています。