『デカルトの密室』(瀬名秀明/新潮文庫)

デカルトの密室 (新潮文庫)

デカルトの密室 (新潮文庫)

「自意識とはすなわち世界観に他ならない」
「そして世界観とはすなわち”物語”なんだよ」
(本書p369〜370より)

 本書は、「知能」(インテリジェンス)についての物語です。とプロローグでそんな風に語っておきながら、本書は知能についての定義も本質も曖昧なままにロボットであるケンイチには知能が授けられています。ずるいといえばずるいのですが(笑)、しかしながらそれこそが物語の力であり、そしてまた知能の本質でもある、ということになるのでしょう。
 わたしはわたしに過ぎません。あなたの考えていることや思っていることなど分かりません。しかしながら、あなたが嬉しければわたしも嬉しいですし、あなたが悲しめばわたしも悲しい気持ちになります。たとえ同情に過ぎないとしても。それは、本書で示されている考え方のように、わたしが他人に心を「吹き込んで」いるからかもしれません。そうすることによって人間は互いを人間にしてコミュニケーションを維持しているのだと。しかしながら、そうした「吹き込み」は他者のみを対象とするとは限りません。ロボットにもそれは及びます。AI技術の発達を競う上で利用されているチューリング・テスト。そこではAIの人間性が試されるわけですが、そこに人間性を「吹き込んで」いる人間の人間性はいったいどのようにして計ったらよいのでしょうか。
 吹き込まれるのはロボットだけではありません。二次元キャラを「俺の嫁」と呼ぶような行為は、二次元のキャラに人間を「吹き込む」ことでしょうし、読者は小説内の登場人物一人一人に感情移入しますが、これもまた「吹き込み」でしょう。それだけではありません。吹き込みは自己にすら及びます。わたしにわたしが吹き込まれることによって〈私〉が生まれます。わたしによって常に監視される〈私〉。不自由な〈私〉。〈私〉がわたしから自由になる方法はないのか? 機械の人間性について考えるうちに立ち上がってくるのはわたしという名の密室。血と肉で作られた「機械の密室」です。
 わたしによって見つめられる〈私〉。その〈私〉が一人しかいないのは何故なのか。意識と無意識という少なくともふたつの意識レベルがあるはずなのに、人は自我の呪縛から逃れることができません。それは肉体という枷、ひいては脳という檻に囚われているからではないか。では、その檻から抜け出すことができるとしたら? それが「脳の密室」の問題です。肉体という物質的な束縛からの解放が可能だとしたらどうでしょう。遺伝子から文化遺伝子へ。その先には事実の総体である現実とは異なる広さを持った、可能性の総体としての論理的な空間が広がっているのでしょうか。しかしながら、認識し得ない無限などゼロに等しい気もします。とはいえ、自意識こそが世界観であるならば、自己からの開放は世界からの解放ということもまたいえるでしょう。
 しかしながら、いくら自意識=世界といったところで、死んでしまえばその人にとっての世界は終わりますが、それでも世界は存在し続けます。世界の存在は強固で、どこまでいっても人は自由になどなれません。それを神の意思、あるいは仏の手の上と、呼び方はどうでも構いませんが、そうした世界に対する挑戦。人間理論に対してのロボットの挑戦。それが「宇宙の密室」です。
 知能の問題は決定論と自由意志の問題でもあります。本格ミステリ的なステージでこの問題を考えますと、後期クイーン的問題・操りの問題として捉えることができます。実際、本書では『チャイナ・オレンジの秘密』『帝王死す』『盤面の敵』といったクイーンの著作を意識したと思われる描写が散見されます。私たちは自らの意志で生きているのか。自らの意志で他者を殺すことができるのか。人とは何か? 死とは何か? 意思決定論と認識論とで現実感は崩壊してきますが、そのなかで頼りになるのはいったい何なのか? 本書はロボットや人工知能といったガジェットが真っ先に目に付きますから一義的にはSFに分類されるのでしょうが、ミステリとしての魅力や読み応えも抜群です。
 メタ意識がテーマであるがゆえに、本書の語りそのものもメタ意識が十分以上に意識されたものとなっています。物語を書く意味と読む意味。本書を書いているのはいったい誰でしょうか。いや、瀬名秀明に決まっているのですが(笑)、しかしながら本書を読まれた方であればこの答えが誤りであることは自明のことでしょう。なぜなら、物語は物語として言葉にされた途端に、作者という〈私〉から切り離されてしまうからです。だからこそ、読者は考えなくてはいけません。裕輔なのか。それともケンイチなのか。人かロボットか。その境界線をダイレクトに読者へ突きつける物語。
 SFとしてもミステリとしても文句なしの傑作なので激しくオススメです。あと、二次元と三次元の区別でお悩みの方がいらっしゃいましたら、そうした方にもこそっとオススメしておきます。もしかしたらより重症になっちゃうかもしれませんけどね(笑)。



 ちなみに、本書は『21世紀本格』(島田荘司・編/カッパノベルス)収録の『メンツェルのチェスプレイヤー』の続編に当たります。もっとも、『デカルト〜』単品でも読めるように必要な説明事項や描写は加えてある、とは作者の言で、実際そうなってます。しかしながら、できるならばやはり順番どおりに読んだ方がベターだと思います。いや、本書を先に読んじゃうと『メンツェル〜』の方に問題があったりなかったりしますので(笑)。
 なお、『メンツェルのチェスプレイヤー』というタイトルですが、実はこれ、ポーの『メルツェルのチェスプレイヤー』にするのを間違えちゃったものらしいです(『CRITICA』*1創刊号p93より)。そんなことってあるんですね(笑)。ポーの『メルツェル〜』は創元推理文庫の『ポオ小説全集1』に『メルツェルの将棋差し』*2興味のある方は是非。
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21世紀本格―書下ろしアンソロジー (カッパ・ノベルス)

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ポオ小説全集 1 (創元推理文庫 522-1)

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*1:探偵小説研究会から発行されてる同人誌です。

*2:”差し”は”指し”が本当だと思います。将棋ファンとして我慢がなりませんが、訳者は小林秀雄大岡昇平だったりします。怖い怖い(笑)。