『ハーモニー』(伊藤計劃/ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

ハーモニー (ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)

「誰かが孤独になりたいとしたら、死んだメディアに頼るのが一番なの。メディアとわたしと、ふたりっきり」
(本書p14〜15より)

 第40回星雲賞日本長編部門受賞作*1。第30回日本SF大賞受賞作*2
 〈大災禍〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は医療経済を根幹とする福祉厚生社会を実現していた。体を見張るメディモルの群れ”WatchMe”を体内に入れることで体調を常に監視され、健康であることを強制される社会。肉体のみならず精神までも健康であることが求められるセカイ。任地から日本に帰還した世界保健機構の生命監察機関所属の霧慧トァンは、目の前で友人の”自殺”を目撃する。それは6582人もの人間が一斉に自殺を図るという異様な事件だった。事件の影に死んだはずの友人・御冷ミャハを見たトァンは彼女の姿を追い求めることになる……といったお話です。
 時間軸としては前作『虐殺機関』の続編に当たりますが、登場人物などの関連性はないので本書単独で読んでも問題ありません。ただし、テーマ的に共鳴する部分もありますので、その意味で両方読んだ方がお得なのは間違いないでしょう。
 作家と作品を安易に結びつけて読解することは厳に慎まなければなりませんが、本書が肺がんによる闘病生活の中で描かれ、そして遺作になってしまったという経緯を知りながら読んでしまいますと、そうした事情をまったく無視して読み進めるのも難しいのが正直なところです。死の恐怖と闘いながら、あらゆる病が克服された未来世界の物語を、いったいどのような気持ちで描いていたのでしょうか。

「未来は一言で『退屈』だ、未来は単に広大で従順な魂の郊外となるだろう。昔、バラードって人がそう言ってた。SF作家。そう、まさにここ。生府がみんなの命をとても大事にするこの世界。わたしたちは昔の人が思い描いた未来に閉じこめられたのよ」
(本書p30より)

 霧慧トァンという”わたし”によって語られる”セカイ”のかたち。生命主義に基づく徹底したパターナリズムによって制限される自由。それは生命・身体の自由のみならず精神的な自由にまでも及んできます。肉体的健康管理の次なる段階としての精神的健康の管理。公にによって削ぎ落とされた私と公の対立。”わたし”と”セカイ”といったセカイ系的な物語構造が、精神と肉体の二元論や公私二元論といった枠組みにも波及して共鳴させています。まさにハーモニーです。シンプルですが奥深い物語だといえます。
 文中にときどき出てくるHTMLならぬETML(Emotion-in-Text Markup Language)タグにも単なる趣向にとどまらないテーマと関連した意味付けがあって、それもまた楽しいです。
 ストーリー自体はシンプルというか単調です。あたかもお使い型のRPGのようなのですが、しかしながら後半になって明らかとなってくる「わたし」というテーマと照らし合わせますと、単調なストーリーだからこそそれが引き立ってくる、と読解するのは決して深読みではないでしょう。病床にありながら生命主義の物語を描き、さらには「わたし」というテーマを引っ張り出す。そうした思考の流れには戦慄せずにいられませんが、そんな矜持が託され得るのがSFというジャンルなのだと思います。
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