『クジラのソラ 01』(瀬尾つかさ/富士見ファンタジア文庫)

クジラのソラ 01 (富士見ファンタジア文庫)

クジラのソラ 01 (富士見ファンタジア文庫)

 10年前に異星人「ゼイ」の侵略によって全面降伏した地球。彼らが人類に課したただひとつの要求。それは無条件で《ゲーム》の開催を手助けし、そのプレイヤーを保護すること。《ゲーム》のワールドグランプリ優勝者として宇宙へと旅立った兄の後を追うため、桟敷原雫は《ゲーム》で勝ち続けることを決意する。ってな感じのお話です。全4巻完結で、本書は起承転結の「起」に当たります。
 《ゲーム》は三人一組のチーム戦です。限られたポイントで製造された256隻の艦隊戦が、異星人によって作られた宇宙空間(”虚界”とか”閉鎖宇宙”とか呼ばれてます)内で行なわれます。ゲームの勝利条件は三つ。

(1)敵軍の旗艦を破壊する
(2)全恒星を支配下に置く
(3)相手が敗北を認め、降伏する

 このうち、(1)はチェスや将棋と似たものですし、(2)の陣取り合戦的な要素は囲碁によく似ています。両者をミックスしたものが《ゲーム》だといえます。ただし、チェスや将棋、あるいは囲碁といったゲームは手番を交互に渡しあうものであるのに対し、《ゲーム》にはそのような制約はありません。『銀河英雄伝説』で行なわれているような艦隊戦をゲーム化したものが《ゲーム》のイメージとしては分かりやすいと思います。異星人が何故人類に《ゲーム》をさせるのか? それはひとまずは謎のままです。
 将棋や囲碁を題材にした物語において、あまりのゲームの奥深さに人知を超えたものの存在を感じ取り、そのすべてを理解し把握している仮の存在として”神”という比喩表現が用いられることがあります。人知を極めた、あるいは超越したかの如き一手を”神の一手”などと言い表したりします。そうした存在と向き合うために盤上に向かうプレイヤーも数多くいます。まさに盤上没我の境地といえるでしょう。そうした境地の先に垣間見える存在である”神”と対比されるのが、本書の物語でたびたび言及される”クジラ”です。そして、そうした存在にわずかながらも接触できるプレイヤーが”アウターシンガー”ということになります。
 神は絶対の存在であるがために孤独です。孤独なのが当たり前です。しかし、そんな当たり間のことが何故物語内において強調されることになるのか。それは、ゲームが相手との戦いによって成り立っているからです。盤上没我の孤独な境地に入るためには、皮肉なことに対戦相手というこれ以上ない理解者の存在が人には必要不可欠なのです。だからこそ、クジラの孤独が際立つことになるのです。人はクジラにはなれないかもしれません。でも孤独ではありません。孤独を選べばクジラになれるのかもしれません。しかし、それは同時に”人”との決別なのかもしれません。
 本書は、桟敷原雫というプレイヤーがそうした高みに一段近づくまでの物語です。本書だけだとニュータイプと言いますか、ガン種の種割れみたいに思わなくもないですが(笑)、シリーズ全体をとおして見ますと、これによって雫は実に微妙な立場に立たされてしまったともいえるわけで、必ずしもご都合主義とはいい切れないのが面白いところだと思います。
 以上、なんとなく俯瞰した立場から本書について語り始めてしまいましたが、きちんと物語に向き合わなければいけませんね(汗)。桟敷原雫をリーダーに、小池智香という昔からの仲間と、新たに仲間に加わる枕井冬湖、それに天才メカニック門倉聖一が《ジュライ》というひとつのチームとして船出を迎えるのが本書のストーリーですが、各所で述べられているとおり本書はスポ根ものとしての面白さを持っています。それは、主人公である桟敷原雫のチーム内でのポジションにあります。天然の智香と天才の冬湖とパートナーを組む彼女は、聡明であるがゆえに自らが凡才であることを自覚せずにはいられません。だからこそ努力して足掻きます。何とかして前を向こうとします。そうした姿勢を保つことこそががチームのリーダーとしての彼女の役割です。だからこその主人公です。とりあえず本書では試練を乗り越えることができた彼女ですが、先に立ちはだかる試練はより過酷なものです。それがどのようなもので、彼女はそれに対してどのように立ち向かうのか? 謎だらけの物語ですが、そうしたスポ根ものとしての展開も非常に気になるところです。
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