『あなたの人生の物語』(テッド・チャン/ハヤカワ文庫)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 S-Fマガジン2008年1月号はテッド・チャン特集だったので、この機会にチャンを読み直してみることにしました。とはいえ、チャンの本は一冊しか出ていないので簡単なんですけどね(笑)。むしろ、こんなに寡作であるにもかかわらず雑誌で特集されちゃうのが不思議なわけで、つまり一作一作にそれだけの価値があるということでもあります。
 本書『あなたの人生の物語』には、表題作を含む8つの短編と、それらについてのチャンによる自作解説(「作品覚え書き」)が収録されています。
 〈バビロンの塔〉は、タイトルのとおり「バベルの塔」神話をモチーフにしたバビロニアSFです。SFらしい用語は何一つでてこないのに、それでいてSF以外のなにものでもないストーリーです。

 かつて科学を信じることと神を信じることとは完全に両立可能でした。宇宙について深く知るというのは、神の創造物を理解することでした。科学は驚きと畏れを生み出し、宗教もまたそれらを生み出すことができます。科学と宗教は、かつては密接に関係しあっていましたが、現在では、両者は対立し、科学は人間の畏れを取り除いたのだと多くの人が考えています。でも、両者は必ずしも対立しあう必要はないのではないでしょうか。
(『S-Fマガジン』2008年1月号収録「テッド・チャン・インタビュウ」p43〜44より)

というチャンの科学と宗教に関する主張・イメージが端的に表現されている一作です。
 〈理解〉。主人公は事故によって脳に傷害を負いましたが、治療の結果、驚異的な知能の向上という思わぬ恩恵を受け、それによって人生が一変します。最初は『アルジャーノンに花束を』みたいなヒューマニズムな物語をチョットだけ予想しましたが、そこから「おいおいそっちへ行くのかよ」という方向へと突き進みます。高度な知能を有したもの同士の戦いにおいて、他方が他方を理解することは可能なのか? 自分の精神活動を理解することは可能なのか? そのとき、人の心はどのようなものになってしまうのか? 「自分の目で自分の顔を見ることはできない」というアナロジーについてのチャンなりの解答が本作なのでしょう。
 〈ゼロで割る〉は、個人的には本書収録作のなかで一番好きな作品です(おそらく少数派でしょうが)。aパートとbパートというテクニカルな構成による何とも言えない余韻が、悪趣味と思われるかもしれませんがお気に入りです。ちなみに、作中に登場する1は2に等しい、というよく知られた”証明”(本書p140)は以下のようなものです。

a=bという数式がある。その両辺にaをかけると
2=abとなる。この両辺にa2−2abを足すと
2a2−2ab=a2−abとなり、分かりやすく括弧でくくると
2(a2−ab)=a2−ab その両辺を(a2−ab)で割ると
2=1
(参考:伊坂幸太郎陽気なギャングが地球を回す』より)

本当に2=1であるならば、数学の秩序は崩壊してしまいます。こうした恐怖はイーガンの『ひとりっ子』収録の「ルミナス」と共通するものがあります。ちなみに、上記数式のトリックをばらしてしまいますと、最後の両辺を(a2−ab)で割るという行為は、(a2−ab)=0(∵a=b)ですから、ゼロによる割り算という禁則に触れることになるからなのです。思い出すたびに居心地の悪くなる不思議な数式です。
 あなたの人生の物語はファーストコンタクトを題材とした言語学SFです。表題作に相応しい超弩級の傑作です。言語の変革によって生じる思考の変化は世界の変化でもあります。それは、ヴォネガット『スローターハウス5』のように、未来を思い出し過去を体験することができるようになることであり、換言すれば、すべてが現在という幻になるということでもあります。変分原理(参考:Wikipedia)なるものは私にはよく分かりませんが、この結末にはホロリとさせられました。
 ちなみに、ヘプタポッドたちの言語のおける書法と発話言語の乖離という現象は、何となく今のネット社会の行く末を示唆しているような気がしてなりません(顔文字とか絵文字とか)。
 〈七十二文字〉は、言語の創造的力というのが全体的なテーマとなっています。すなわち、あらゆるものが神の反映であるように、あらゆる名辞は聖なる名辞の反映であるという「名辞の原則」・名辞によって科学と宗教が同義のものとして結び付けられています。個別のネタとしては、ゴーレムと前成説(生体は親の胚種のなかにあらゆる部分が形成されているという説)とが結び付けられています。
 名辞とはファンタジー小説における呪文のようなものですが、しかしながら本作は純然たるSFとして理解すべきです。科学と魔法の違いとはいったい何なのか? この点について、チャン自身は次のように述べています。

 わたしの考える魔法と科学の本質的な違いはこういうことだ。魔法の効力は、その行使者に依存する。魔法は、だれでも同じようには使えない。
(中略)
 科学では、こういうことはまったく起きない。銅線のコイルに磁石を通せば、あなたがだれだろうと、あるいは心の善悪にかかわらず、電流が流れる。
(中略)
 どちらの小説にもありえないこと(鉛を黄金に転換すること)が出てくるが、そのありえないことをどう扱うかの違いで、片方はSFになり、片方がファンタジーになる。
(『S-Fマガジン』2008年1月号収録「科学と魔法はどう違うか」p46より)

こうした観点からすると、本作は紛れもなくSFだということになります。チャンにとっての宇宙とは無個性なものであり、だからこそ、そのなかに生きる人間の誰もが個性的な存在でいられるのだと思います。
 〈人類科学の進化〉ショートショートです。作中で問われている超人類科学との付き合い方は、現代における科学との付き合い方のメタファーではないかと思ったり思わなかったりです。
 〈地獄とは神の不在なり〉は、私のような無神論者にとってはとても読み心地の良い物語です(笑)。だからこそ、信仰心のある方が読むとどのような感想を持たれるのかが逆に気になります。
 〈顔の美醜について――ドキュメンタリー〉は、美醜失認措置(カリーアグノシア)という技術の開発によって、美人とかブスとかを判断する感性を奪うことが可能になった社会における問題を、まさしくドキュメンタリーの手法で描くことによって”美とは何なのか?”ということを問いただしています。島本和彦の短編漫画に、人間は顔じゃないと悟った金持ちの若者が全人類に整形手術を施して美男美女ばかりの世の中にしようとするプロジェクトを発動するという荒唐無稽な物語があるのですが(『ワンダービット 3巻』収録)それとは違い、見られる側ではなく見る側に作用を及ぼすことで同様の効果を挙げようとしているところが面白いです。もしもこの技術が実現可能なものになったとしたら、どうしましょうか? 私は一度試してみたいと思うのですが・・・。
 ついでなので、『S-Fマガジン』2008年1月号に収録されていたチャンの2作品も紹介しておきます。
 〈商人と錬金術師の門〉は、『千夜一夜物語』なハードSFです。タイムトラベルものなのですが、やはりSF用語は一切出てこないので、肩肘張らずに読むのが吉でしょう。ワームホールを通じて20年後の世界を行ったり来たりすることによって生まれる不思議な物語は、時の流れと愛の不変性をテーマとした物語でもあります。チャンの物語において、タイムトラベルは過去を変えるための手段ではありません。過去は変えることはできませんし、未来は既に定まっています。それでも、作中の人物たちはタイムトラベルを願います。それは多分、”今”という名の嘘を作り上げるためなのだと思います。
 〈予期される未来〉ショートショートですが、読後感はずっしりとしたものがあります。自由意志をバッサリと否定した後でもなお自我を持つことは可能なのか? こんなの読まなきゃ良かったと思われても責任は持てません。
 以上で、テッド・チャンが17年間の作家生活で発表してきた作品のすべてをコンプリートしたことになります。”日曜作家”としてのこだわりは分かりますが、もっと書いてよ(笑)。
【関連】科学と魔法の区別と禁書目録 - 三軒茶屋 別館

S-Fマガジン 2008年 01月号 [雑誌]

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