『あがり』(松崎有理/東京創元社)

あがり (創元日本SF叢書)

あがり (創元日本SF叢書)

 研究とは物語を語ることに似ている。
 ささいな手がかりから壮大な物語、すなわち仮説を構築するのが研究の醍醐味だ。その際、想像力の有無が重要になる。
(本書p152より)

 「創元日本SF叢書」という新レーベルの一冊目です。第1回創元SF短篇集受賞作「あがり」が収録されています。〈北の街〉にある蛸足型の古い総合大学を舞台にした「理系女子ならではの奇想SF連作集」(カバー折り返しより)です。
 「あがり」がSFであることには特に異論はないです。が、他の4作と合わせて評価したときに、本書がSFを冠するレーベルから刊行されている点について多少の疑義を抱かなかったわけではありません。本書はどれも大学の研究室が舞台となっている作品集です。なので、SF=サイエンス・フィクションという言葉から連想するところの科学性というものは十分に充足しています。ですが、それだけだと「研究室で研究と論文の執筆に明け暮れる理系人間たちの少し変わった日常」ということになってしまいます。もちろん、本書は小説ですから、その意味ではフィクションです。ですが、私たちがSFというときに、そこで求められているフィクション性とでもいうべきものは、単に架空のお話であればよいというようなものではないでしょう。それはときにセンス・オブ・ワンダーなどと呼び表わされるようなものだと思うのですが、そういった飛躍みたいな大胆さが希求されるのではないでしょうか。そうした観点からすると、本書はよくも悪くも知に足が、もとい地に足がついてるお話が多いです。そんなわけで、本書をSFとして紹介することに躊躇いがないわけではないのですが、一方で、本書のSF性を否定するのも強く躊躇われます。困ったものです(苦笑)。
 思うに、本書はひとつのSFという物語を想起したときの”ささいな手がかり”というものを喚起する効能があると思います。研究者として生きること、あるいは研究することの醍醐味は充実感といったものは、SFにも通じると思います。既存の知識や理論をベースに想像力を働かせて新たな知識や理論を発見する、それはまさに日常のセンス・オブ・ワンダーなのだと思います。そんなSFの端緒として本書を位置づけることができるのであれば、SF叢書というレーベルの中の一冊として本書を理解することも難しくないのかもと思ったりしました。
 本書には「あがり」を含む5編が収録されています。生物進化の原動力となる自然淘汰についての個体淘汰論と遺伝子淘汰論の対立。個体淘汰論に立つイカルは遺伝子淘汰論の不当性を証明すべく実験を行うが、思いもよらぬ結末が……というお話の「あがり」*1。”数学分野では、ひとたび正しいと厳密に証明されたものはけっしてくつがえされない。あらたな実験や観測結果ひとつで主流の説があっさり否定されてしまうほかの科学分野との決定的なちがいだ。”(本書p54より)という数学という研究分野の特徴を記した一文がオチでピリリと利いてくる「ぼくの手のなかでしずかに」*2。3年の間に一本、一定の被引用指数を満たす論文を発表しないと研究者としての職を追われることを定めた法律、通称”出すか出されるか法”。この法律によって研究者に代わって論文を書くことを生業とする”代書屋”という職業が生まれます。そんな若き代書屋の活躍と悲哀をどこかコミカルに描いた「代書屋ミクラの幸運」。やはり”出すか出されるか法”によって論文執筆の期限に追われる昔なじみの理論系と実験系の研究者。二人は共同執筆で論文を発表することにしますが、しかし……。研究していてかれら(微生物)に裏切られたこともない、という言葉が哀しく響く「不可能もなく裏切りもなく」。小学生の少年と少女の夏休みの短い交流を通じて空想と科学とをつなく「へむ」
 個人的には、あまりSFらしくない「代書屋ミクラの幸運」「不可能もなく裏切りもなく」が好きです。”出すか出されるか法”によって3年に一本はある一定の質の論文を書いて発表しなければならないという設定は、事業仕分けなどで利益を生み出さず赤字が見込まれる研究は無駄として切り捨てられる昨今の風潮からすれば現実的なものだといえます。そんな中で浮かび上がってくる”研究”という行為の特徴。未知のものを見つけ出す創造的行為が研究であるのに対し、論文執筆は過去を振り返り総括する行為です。それゆえに論文を書くことを厭う前進型や、ただ単に面倒を嫌う面倒型、あるいは完璧を求めるがゆえに論文の執筆が遅れる完璧型など、研究者と論文の関係はまちまちです。また、当然のことながら天文学など3年というスパンでは研究の成果を見出しにくい分野もあります。また、教育型の学者にとっても論文という評価は不適です。それでも、今の世知辛い世のなかではプレゼン能力が必要であることも否めません。孤高な研究者がいかに世間との接点を見出していくかという社交性もまた研究者に求められる能力であるというシビアな一面が描かれています。そんな社会性がとても興味深いです。
 ”日常の謎”ならぬ”日常のSF”とでもいうべき研究者の日常が楽しめる短編集です。オススメです。
【関連】http://www.webmysteries.jp/special/matsuzaki1105-1.html(収録作「不可能もなく裏切りもなく」を実際に読むことができます。)

*1:創元SF文庫『量子回廊』初出。

*2:創元SF文庫『原色の想像力』初出。