『遠まわりする雛』(米澤穂信/角川書店)

遠まわりする雛

遠まわりする雛

 〈古典部〉シリーズ4作目は短編集です。奉太郎たちが古典部に入部してからの約1年の間に起きた出来事がつづられています。過去の3作を振り返りながら読むとより奥深く物語を楽しむことができるでしょう。
 〈やるべきことなら手短に〉は、一人称語りの陥穽を突いた仕掛けになってます。これだから一人称は信用できないんですよね(笑)。「不慣れなやつほど奇を衒う」がいろんな意味で活かされているのが面白いです。ところで表題の『遠まわりする雛』ですが、それはこの短編についても(ひいてはシリーズ全体に)言えることだと思います。
 〈大罪を犯す〉は、謎解きの対象となる問題が明らかになるまでの4人の会話がとても楽しいです。

「ですがわたし、なにがおこっておこらなければならなかったのかわからないんです。当然にわたしはおこらなくてもよかったはずなのに何かがおこったのでおこることになったんですが、おこったことというのがわからないんです」
(本書p68〜69より)

 面白いですね。面白いですが、私もあまり怒る性質ではないので気持ちが分かります。あまり怒らない人間にとって、突発的な出来事に対して怒りを表してしまうと、それ自体が突発的なことになってしまって、そもそものきっかけとなった出来事に対しての衝撃が薄れてしまうのです(ま、あくまで私の場合ですが)。ですから、”怒る”と”起こる”がごっちゃになってしまうのも、またその双方について考えたくなるのもよく分かります。だから余計に面白かったです。
 〈正体見たり〉は。古典部だけに古典的な怪談話です(←うまいこと言ったつもり)。怖いのは幽霊よりも人間、というのもよくあるオチですが、キャラクタの魅力によってあっさりカバーされてしまうのが、ずるいといえばずるいですよね(笑)。
 〈心当たりのある者は〉は、米澤版『九マイルは遠すぎる(書評)』とでも言うべき逸品です。ミステリとしては収録作品中一番の出来でしょう。『十月三十一日、駅前の巧文堂で買い物をした心あたりのある者は、至急、職員室柴崎のところまで来なさい』というメッセージから思わぬ可能性へと至るその過程がとても面白いです。メッセージそのものへの検証もさることながら、それ以外の伏線的な要素も文章の隅々にさりげなく隠されていて、それらが仮説を補強する材料として用いられて仮説に仮説が積み重なっていく流れがとても心地好いです。
 それとは別に気になる点が少々あります。千反田は知らないが、『十文字』事件でも俺はこそこそ小細工をやったのだ(p130)とあるのですが、前作の打ち上げへの流れだと、奉太郎にしろ里志にしろ何らかの説明を千反田にしないと収拾がつかないと思うのですが、どうやら全部は話していないみたいです。だとすれば、いったいどうやってお茶を濁したのでしょうか。私、気になります(笑)。それにしても、「理屈をつけることが出来ないことを証明する理屈」というのはパロドキシカルで面白いですね。
 〈あきましておめでとう〉は、タイトルのとおり初詣の出来事です。密室に閉じ込められた二人、の割には色気に乏しい話ではありますがまったくないわけでもなくて、この辺りの微妙な雰囲気は次の話以降へと繋がっていきます。奉太郎が暗号(しかも解いてもらうことが前提)の解き手ではなく作り手に回るわけですが、暗号の出来云々よりもこの程度で伝わる関係性が面白い、と読むべきでしょう。
 〈手作りチョコレート事件〉は、おそらく収録作の中でもっとも力の入っている作品だと思います。ここでも〈やるべきことなら手短に〉と同じく一人称の陥穽を突いた語りが用いられています。語らなくてもいいことなら、語らない。語らなければいけないことは手短に。ですね。普段は考えてから行動するはずの奉太郎が、いつの間にか行動してからそれを説明するような語り方になっていたら、ミステリ読者としては疑ってかかるべきかもしれません。とは言え、ミステリ的な趣向はこのお話では従的な楽しみとして読むべきで、やはり「犯人」と奉太郎との会話が眼目です。全然関係ない本からの引用で恐縮ですが、「女だけは必死で積み上げてきたもののとなりに一秒で座る」(『ハチワンダイバー 4巻』p33より)という言葉を思い出しました。ちなみに、本作で奉太郎と里志が対戦しているのはバーチャロンというゲームだそうです(私はやったことないので全然分かりません)。
 遠まわりする雛は、テーマ的には〈手作りチョコレート事件〉と繋がっています。他人事だと思ってた問題がついに我が身に降りかかってきた、という感じですか。読者としては何を今更なわけですが(笑)。本作を読んで改めて思うのが、本書が青春ミステリだということです。ミステリはジュブナイルや青春小説と相性がいいです。それは、ミステリにおける仮説という名の幾多の可能性の検討が、少年少女が持っている未来への可能性とシンクロするからだと思います。ジュブナイルであれば、様々な可能性を万華鏡のこどくきらびやかに見せて大人になることへの希望を感じさせるだけでも良いでしょう。しかしこれが青春小説となるとそれだけでは物足りません。様々な可能性がある中で、しかしながら現実には選ぶことのできないもの、あるいは既に失われてしまったもの、といった不可能性が描かれる必要があります。可能性には誰しも何らかの限界があるからです。だからこそ、それらを乗り越え、あるいは振り切って前へと進む道が模索されなければなりませんし、そうした成長過程が描かれてこそ青春小説として読者も共感できるのだと思います。本シリーズの奉太郎たち古典部のメンバーはどういった道を歩んでいくことになるのでしょうか。続きがとても楽しみです。
 ちなみに、なぜ『遠まわりする雛』が『遠回りする雛』ではないのか、PCで漢字変換するとなおさら気になるのですが、こういう理由だそうです。言われてみれば分からなくもないですけどね(笑)。
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