「ググレカス」に感じる違和感
インターネットの掲示板やチャットにおいて、自分で検索もせずあれこれと質問をしてくるユーザに対し、「ググれカス」(それくらいググれ(Google検索などを使って調べろ・の意味)、このカス野郎)とだけ返答する者が多いことから、これに触発された「ふたば☆ちゃんねる」の住民が“ネタ”として、『ググレカス』というローマ時代の人物をでっちあげた事から、「ソレナンテ・エ・ロゲ」など一連の亜流を生み出すに至る、一大ムーブメントとして広まったものである。
この「ググレカス」という言葉を見るたびに、フジモリは非常に強い違和感を覚えます。
なんて皆、親切なのだろう、と。
「ググレカス」と答える方々は、教えて君の質問に対し「Google検索などを使って調べなさい」と「解決法」を教えています。親切以上の何者でもありません。
謎を解決する際、普通は「どのように謎を解けばよいか」を考えます。その結果、仮説と検証を繰り返したり、はたまた書物を調べたりと謎を解く「方法」を導き出します。クイズなど、「知識」を問われる「謎」でさえも、「自身の知識の中から答えを引っ張り出す」という「手法」を無意識の内に導きだしていると言えるかと思います。
教えて君はその手法を導くための「思索」をすっ飛ばして、いきなり「答え」を求めようとしています。「ググレカス」とは、「答え」を求める人に「答えを導き出すための答え」を与えてあげているのです。
米澤穂信のミステリ小説に「古典部シリーズ」というシリーズがあります。
【ご参考】
【関連】
・プチ書評 『氷菓』
・プチ書評 『愚者のエンドロール』
・プチ書評 『クドリャフカの順番』
・プチ書評 『遠まわりする雛』
このシリーズに登場するレギュラーキャラ、福部里志は、自らデータベースを自認し、「データベースは結論を出せない」を口癖としています。
データベースと言って真っ先に思い浮かぶのはwikipediaです。知りたい言葉を入力し、検索すれば、一瞬の内に情報を入手できます。googleも巨大なデータベースといって過言ではないでしょう。疑問を入力すると、これまた一瞬で回答が出ます。
彼は「答えを出す手法」を「自身のデータベースから検索し、抽出する」という手法を頑なに守っているのであり、「それ以外の手法」を導き出すこと、思索することを半ば放棄しています。
一方、主人公・折木奉太郎は福部のようなデータベースは持っていません。しかし彼が持つ、やや神経質ともいえる内向き思考は、「答え」を導き出す「思索」に長けているのです。
福部のデータベースでは回答が無いような「謎」に対し、「どうやって謎を解けばよいか」という「手法」を思索し、答えを導き出す。まさしく「推理」です。
翻って、疑問に対し「思索」せずに答えを求める方々もいます。当然ながら「答えを出す手法」を思索した結果「他人に聞くこと」を選択しているのでしょうが、フジモリは短気なので「ググレカス」と言うよりも「まず自分で考えたら?」と言いたくなってしまいます。
「答え」そのものを求めるよりも、「答えを導き出す手法」を思索することのほうが遥かに頭を使います。
でも、だからこそ、「答え」という「結果」よりも、「答えを導き出す」ための「プロセス」が重要なのではないかなぁ、と思っています。
最後に『ジョジョの奇妙な冒険』より、このジョジョ語を引用して締めの言葉としたいと思います。りぴーとあふたーみー。
そうだな…
わたしは「結果」だけを求めてはいない
「結果」だけを求めていると人は近道をしたがるものだ……………
近道した時真実を見失うかもしれない
やる気もしだいに失せていく
大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている
向かおうとする意志さえあれば
たとえ今回は犯人が逃げたとしても
いつかはたどり着くだろう?
向かっているわけだからな
……………違うかい?*1
*1:警官、59巻、p114