仮説:メタ=メタフィクション+超虚構

※これまでの流れ
メタ小説に関する覚書(アイヨシ)
メタとは何ぞや?(フジモリ)
西尾維新『戯言シリーズ』と谷川流『学校を出よう!シリーズ』を対比させてメタについて考察してみました。(フジモリ)



 ということで、今回はフジモリの疑問に触発されて、アイヨシなりのメタについての考えをまとめてみたいと思います。まずは、メタフィクションについてはっきりさせておきましょう。
(以下、長々と。)

メタフィクションとは、フィクションを単にフィクションとして提示するにとどまらず、それが「現実」ではなく、まさしく「虚構」にほかならぬ旨を平行して読者に自己暴露し続けてゆくテクストを指している。
(『國文学 解釈と教材の研究』平成7年5月号p79より)

 平たく言えば、フィクションについて述べているフィクションのことです。このような語義に忠実に考えると、アイヨシが先に述べたメタ小説のパターン(1.自己言及型、2.入れ子細工型、3.叙述トリック型)のうち、メタフィクションと呼べるのは1.のみで、2.と3.はメタフィクションと呼ぶには相応しくないことになります(特に3.)。ところが、実際にはこれらの手法もメタと呼ばれ、メタな手法として定着しているのが実情です。では、メタとはいったい何なのか? そこで、メタフィクションの大家である筒井康隆の著書に頼ることにしました。

方法の冒険 (21世紀文学の創造 3)

方法の冒険 (21世紀文学の創造 3)

 筒井は昭和50年3月に『國文学』誌上で超虚構性についての考えを発表しました。超虚構とは、虚構であることを前提とした虚構(『方法の冒険』p139)と定義されます。筒井が「超虚構性」という考えにたどり着いた原因はいくつもありますが、一つには文学対SFの論争があります。既存の文学・文壇がSFを排除するに用いた理屈に「あんな非現実的なものは文学じゃない」というのがあります。つまり。リアリティの欠如です。ところが、かくいう文学にしたって、小説である以上フィクション・非現実的なものに決まってるのに、何ゆえSFばかりがその点を非難されなきゃならないのか? 非現実的なものから非現実的と言われるSFとは何なのか? その結果SFの本質として考え出されたのが、虚構の中の虚構としてのSF、つまり超虚構ということになります。「超虚構」の試みの具体例については、筒井康隆の著作『虚人たち(書評)』『残像に口紅を(書評)』『巨船べラス・レトラス(プチ書評)』などをお読み下さいませませ。
 で、筒井は更に続けます。

「虚構であることを前提とした虚構」という「超虚構性」の特質は、考えてみれば「虚構性を強調した虚構」であり、ここからメタフィクションという概念まではあと一歩の距離でしかなかった。メタフィクションは語義からは本来「虚構の虚構性を批判的に扱う虚構」という意味内容であるべきだか、現在ではメタフィクションとして分類される虚構の共通部分にはこの両者の意味内容が含まれていてもいいのではないかと考えはじめたのは、ラテンアメリカ文学におけるマジックリアリズムに接したからである。「虚構性の強調」が広義にはそのまま「虚構性の批判」にもなり得ると考えられたからであった。
(『方法の冒険』p141〜142より)

 ということで、超虚構とメタフィクションが出会うこととなりました。で、言葉の意味をあくまで論理的に考えると、メタフィクション∈超虚構(メタフィクションは超虚構に含まれる)のはずで、超虚構がメタフィクションの大概念として使われるべきだと思います。思うのですが、筒井は逆にメタフィクションの方を大概念として用いています。なぜでしょう? 理由は分かりませんが、ひょっとしたら自らの提唱する「超虚構」という概念が定着しなかったことを受けて妥協したのかもしれませんね(笑)。ただ、「超虚構」という言葉自体は定着していないかもしれませんが、その代わりとして機能しているのが「メタ」じゃないかと思います。つまり、「メタ」と「超虚構」は同じ意味だと考えます。ではなぜ「超虚構」ではなく「メタ」が市民権を得たのか? それは分かりません(トホホ)。
 ちなみに、その昔SFと同じくミステリ(本格)も、やはり文学・文壇から「非現実的だ」とか「人間が書けてない」とか非難されてました。そこで台頭してきたのが松本清張を筆頭とする社会派であり、これによって本格ミステリは一時期死に体となります。しかし、「非現実的で何が悪い」と開き直った新たな作家たちによって本格ミステリ復権します。いわゆる新本格の登場です。新本格の書き手たちは非現実性との批判を意に介しませんでしたし、場合によっては積極的に肯定すらしました。そうした過程において、新本格の一部に、物語性よりも作者対読者のゲーム性をより重視する方向に先鋭化した作品が生まれることになります。それが叙述トリックを用いた作品です。そして、こうした叙述トリックを使用した作品を理解・解釈を展開するための言葉として「メタ」が使われています。ここで使われているメタは、まさにフジモリの言うように物語より上の位相であり、すなわち「作り手を俯瞰する読み手」としてのメタだと言えるでしょう。つまり、「超虚構」と「メタ」は、SFとミステリの違いこそあれ、非現実的扱いされたことの反動から生まれたという共通の背景があって、だからこそ中身が同じものになったのだと考えます。
 とは言え、現在のメタ論は更に進んだ段階へと差し掛かっています。かつてのメタフィクションは現実重視を前提とした批評への反発から提唱されました。しかし現在、文壇はどうか知りませんが、とかくネット上などでフィクションを楽しんでいる人の多くは、フィクションがフィクションであることを当たり前に受け入れた上で、程度の差こそあれメタな視点から物語を楽しんでいるはずです。何しろ、そもそもサイト・ブログを見たり書いたりする行為にすら、仮想現実という虚構を意識せずにはいられない現実があるのです。現実至上主義ではとてもじゃないですがやってられません。ということで、旧来のメタ論と現在のメタ論との差異がメタの定義の難しさ・違和感の元になってるんじゃないかと考えます。
 とまあ、以上長々と語ってきましたが、相も変わらぬ試論・叩き台です。異論反論大歓迎です。特に今回は昭和50年3月などという私がまだ生まれてもいない頃の議論を持ち出しちゃったこともあり不安でいっぱいです(でも書きたかったのです)。むしろいろいろと教えて欲しいくらいです。
 あと、戯言シリーズはアンチ・ロマン(Wikipedia:ヌーヴォー・ロマン)で説明した方が分かりやすいんじゃないかと思うのですが、「じゃあメタフィクションとアンチ・ロマンとの相違点って何?」ということになって、また長々と書かなくてはならないので、それはまたの機会にということで(笑)。
【ちょっとだけ関連】
プチ書評 巻き込まれ型探偵論からなぜか戯言シリーズについての戯言へ