メタとは何ぞや?

 先日のアイヨシの記事に触発されたのでフジモリなりのメタ論をば。
【参考】三軒茶屋別館 メタ小説に関する覚書
 基本的にアイヨシのいう「メタ」とは概念が全く異なっていたり、相互の意見に矛盾が存在するかもしれませんが、書き手が異なっていますのでご容赦いただきたく。



 メタ小説、メタフィクションなど「メタ」という言葉はしゅっちゅう見かけるのですが、「メタとは何ぞや」という定義についての記載ってあまり見かけないように思われます。おそらくメタという概念を知っている方なら説明せずとも自明の単語なのだとは思いますが、メタという言葉を知らない人がいざ調べようと思っても結構難しいと思います。
 実際、google先生「メタとは?」と尋ねてもメタ言語とかコンピュータ用語とか出てきて、なんやよぉわからんわ、という状態です。
 あえていうなら「メタフィクション」が近いのですが、いまいちしっくりこない気がします。
wikipedia:メタフィクション
 まあ、ポストモダンとか第四の壁とか、みっちり考察するとそれこそ本が一冊書けるぐらいのボリュームになりますので、今回はフジモリが勝手に定義している「メタ」についてつらつら書こうと思います。
 なお、ここでいう「メタ」とは小説・マンガ・アニメなどのいわゆる「作品(フィクション・ノンフィクション問わず)」についての「メタ」です。メタ言語とかメタ認知とかありますが、今回は関係ありませんのでご了承ください。
 端的に言うと、「メタ」とは『「物語そのもの」を「物語より上位の視点」から観る』ことだと思います。
 より噛み砕いて言うと「登場人物」ではなく「読み手」の視点ということなのですが、なぜこれが「メタ=高位」なのかというと、我々3次元の住民が「立体(おなじく3次元のもの)」を見ても、一度に見れるのはその「面=2次元(=自身の次元より下位の次元)」だけです。また、2次元の住人は「面(=同じく2次元のもの)」を見ても「線(=自分より下位の1次元)」しか見ることは出来ないでしょう。
 物語の登場人物は自身が登場している場面しか認識できませんが、「読み手」は物語で起こっている全てのことを俯瞰できる。だからこそ、「読み手」は「登場人物」よりも「メタ=高位」の存在なのです。
 これがマンガ・アニメ・小説などに適用された場合どうなるかというと、
 例えば勇者が魔王を倒す物語を読む場合、やられそうな勇者を見て
「あー!勇者が負けそうだ!どうなるんだろう?」
と感情移入して読むことを「現在の位相」と位置づけた場合、
「そういえば仲間が別行動とってたな。助けに来るんだろうか?」
 と登場人物そのものが知らない情報から物語を俯瞰する状態が「高次の位相=メタ」なわけです。
 しかしながら、さらに高次な「メタ」が存在します。それは、「物語の作り手」という存在です。先ほどの勇者の物語で言うと、
「勇者が負けたら連載終わるだろうからどうせ勝つだろう」
とか
「作者の傾向からしてここで助けが来るだろう」
など作者の都合や編集の都合、物語の傾向などから作品が構築される要素を考察し、物語を取り巻く要素を俯瞰すること、これがさらなる高位の位なんじゃないかと思っています。
 もと文学部のフジモリにとっては、そもそも文学を考察するときに「作者がどういう人生を歩んできたか、それがどのように作品に反映されているか」だとか、「作品が世に出た社会的背景」だとか、「作品の構造は他の同時代の作品とどう異なるのか」などという視点から分析してました。そういう意味では文学部ってメタな視点なんですよね。
 そういう意味でメタメタ言われていますが、実際は「物語」の上位に「読み手」というメタ(=高位)、その上に「作り手」というメタ(=高位)が存在し、現在使われている「メタ」はさらに上の位相、「作り手を俯瞰する読み手」というメタ(=高位)の状態なんじゃないかな、と。
 しかも、「作り手」もさらにその上を行こうと「作り手を俯瞰する読み手を意識した作品」を書きます。これがいわゆる「メタ小説」なのかなと勝手に思っています。
 以上、つらつらとメタについて語りましたが、今回の話はあくまでフジモリの個人的な考え方なので異論反論あると思います。もし「それってメタって言わねーよ!」と思われた方は、あなたなり(←ここ重要)の「メタの定義」をお教えいただければ幸いです。