『魔術師を探せ!』(ランドル・ギャレット/ハヤカワ文庫)

魔術師を探せ! (ハヤカワ・ミステリ文庫 52-2)

魔術師を探せ! (ハヤカワ・ミステリ文庫 52-2)

「いま行方がわからないのは魔術師だ」「魔術師はこの事件ではどこにいるのか? そして誰なのか?」
(本書p253より)

 本書にはSFミステリの傑作として知られる”ダーシー卿”シリーズの中編3作品が収録されています。もっとも、SFといいながらも本書では産業革命の代わりに魔法の発達したパラレルワールドが舞台なので、ファンタジー×ミステリ(FTミステリ)の方が妥当だと思います。それが何ゆえSFミステリと呼ばれているのか? おそらくアシモフがSFミステリとしてこのシリーズを紹介したからじゃないかなぁ、と、『SF九つの犯罪』の序文『SFという宇宙』を読んで思いました。

SF九つの犯罪 (新潮文庫 ア 6-1)

SF九つの犯罪 (新潮文庫 ア 6-1)

 『SFという宇宙』内にて、アシモフは次のように述べてます。

 作家は、その架空社会のすべての境界条件を、丹念に読者に説明しなければならない。その社会でできること、できないことを、明確にしなくてはならない。そうした境界が決定されたところで、つぎに探偵の見聞きしたすべてを読者に見聞きさせ、探偵のつかんだ手がかりのすべてを読者に知らせなければならない。読者を混乱させるために、目くらましやにせの手がかりを使ってもよいが、いかにその社会が奇異であっても、なおかつ読者が探偵の先を越して解答に到達できるだけの余地を残しておかなくてはならない。
(『SF九つの犯罪』p11より)

 こうしたことが実現されている作品のことを、アシモフは『SFミステリ』と呼び表しています。してみれば、”ダーシー卿”シリーズはまさにSFミステリということになります(ちなみに、『SF九つの犯罪』には、”ダーシー卿”シリーズの一編、『イプスウィッチの瓶』が収録されています)。
 このシリーズは、魔術が存在しているだけでなくて、英仏が英仏帝国という統一王朝を築いていて、ポーランドなどと対立関係にあるという、架空歴史小説にもなっています。そのため、そうした国際情勢が動機に絡んでくると分かりにくくて、そこが日本で人気になるためには少しマイナスなのかもしれません。
 探偵役を務めるのはダーシー卿で、ワトソン役はマスター・ショーンです。ダーシー卿は頭脳明晰で剣術にも秀でていますが魔術は使えません。対してショーンは非常に優秀な魔術師です。ワトソン役でありながらも他のミステリよりも活躍の機会が多いのが特徴的でもあります。

 『その眼は見た』は、魔術が発達した世界においてダーシー卿がいかに事件を捜査して解決するのかという一連の手法を知ることができるという点で初読に相応しい作品です。被害者の体内に銃弾があったとして、それが銃から発射されたものなのか、あるいは魔術によって射出されたものなのか。銃と弾丸との関係性を計る〈接触感応の法則〉という魔術によってそれは明らかになります。また、被害者を憎む人物が複数いたとして、その中の一人が被害者の死を願って怪しげな儀式を行ったとしても、普通だったら何の犯罪にもなりません。ところが、この世界だとそうした儀式は”黒魔術”に該当し、正しく行われれば実際に効果を発揮してしまうので殺人行為としての危険性を検討しなければなりません。もっとも、本作の場合は、タイトルでも仄めかされているように〈アイ・テスト〉、すなわち死者の網膜から真相を写し出すという魔術によって解決されるのでそうした捜査はあまり意味がないんですけどね(笑)。ただ、最後に交わされる真犯人と神父の会話はとても印象深いです。
 シェルブールの呪い』は、原題『A Case of Identitiy』のとおり、身元が問題となる秀作です。魔術が存在する世界ですので、蝋人形や似姿法(シムラクラム)といった魔術的な方法が問題となるのですが、この蝋人形を応用したトリックには少々アンフェアな思いを抱きつつも感心させられました。外面を似せる方法と内面の問題とを巧みにプロットに組み込んでいるのが素晴らしいと思いました。不思議な余韻の残る一品です。
 『藍色の死体』では、キリスト教と他の宗教との関係が問題になります。何となく、P・アンダースンの『折れた魔剣(書評)』を思い出しました。それはともかく、空っぽであるべき棺の中から死体が、しかも藍色に染められて発見されたというのは普通だったら驚愕の謎なのですが、魔術が存在する世界の話だと「そういうこともあるのかな」と思ってしまって、それを謎だと認識するためには作中での捜査の進展・説明を待たなくてはなりません。謎のインパクトが薄れてしまうのがSFミステリの難しいところですね。反面、他ではなかなか描くことのできない独自の謎を提示できる可能性があるというメリットはありますけどね。3作も読めば大体のパターンが分かってくるのですが、”ダーシー卿”シリーズにおいては、魔術というのはミスディレクションのために用いられてて、真相は魔術以外のところにあるというのがそれです。SF性とミステリ性とがうまく両立しているコツはそこにあるのだと思います。

 ちなみに余談になりますが、パラレル英国王室を舞台にしたミステリとして、P・ディキンスン著『キングとジョーカー』という作品があります。この事件で捜査を担当するのが同じくダーシーという名前の刑事なのです。これは偶然の一致なのでしょうか? それとも、”ダーシー”には英国王室と何か縁があるのでしょうか? もしくは、どちらかがどちらかをリスペクトしたのでしょうか? どうでもいいとは思いつつも気にはなりますので、何かご存知の方がいらっしゃいましたらご教示下されば幸いです(ペコリ)。

キングとジョーカー (扶桑社ミステリー)

キングとジョーカー (扶桑社ミステリー)

 さらに余談です。タイトルが、表紙では『魔術師を探せ!』となってますが背表紙では『魔術師を捜せ!』になってます(私が持ってるのは2005年にリバイバルされた2005年9月15日付二刷です)。『探せ』と『捜せ』。どっちが正しいんでしょうね?(笑)