『銀河英雄伝説2 野望篇』(田中芳樹/創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈2〉野望篇 (創元SF文庫)

銀河英雄伝説〈2〉野望篇 (創元SF文庫)

 本編だけで全10巻の大長編である本作ですが、2巻で早くも山場が訪れます。書評にしろ感想にしろその山場について触れないわけにはいかないので、以下は既読者限定でお願いします。何せ20年も前に完結しているシリーズについての話題ですから同窓会みたいな気分でついつい語ってしまいがちなのですが(笑)、いいものはいつ読んでもいいものなので、未読の方は創元SF文庫化をきっかけに是非読んでもらえればと思います。
(以下、長々と。)
 2巻では帝国と同盟の両陣営でクーデターが発生します。どちらのクーデターもラインハルトが帝国の全権を手中に収めるために仕組まれたものです。特に同盟側のクーデターは少々出来過ぎのような気もしますが、ラインハルトの戦略家・戦術家以外の策略家としての一面が珍しく発揮される場面でもあり、その万能さ・銀河の歴史の中心にある者としての存在感をまざまざと読者に見せつけます。
 ラインハルトとヤンの二人の天才は、今回はそれぞれの陣営内の敵を倒すことを目的とすることになります。二人の天才がその能力を存分に活用して敵を撃破していきますので、クーデターを起こした側はいい斬られ役ではありますが、戦略・戦術面では痛快なストーリーとして楽しめます。ただ、ラインハルトの方は豊富な手駒を活用して敵を倒していくのに対し、ヤンの方は自らの手で表立った敵をすべて倒さなければならない立場の違いというのも浮き彫りになり、この点は、今後予想される二人の直接対決への流れとその結果にも大きく影響することになるわけです。
 両陣営のクーデターについて政治的な視点から着目してみましょう。帝国側の場合、絶対君主制ですから、クーデターを起こす場合にあまり難しいことを考える必要がありません。覇権を争うもの同士で戦って勝った方が権力を手にする。有能な権力者は支配される側の立場としても歓迎なわけで、実際、その論理でラインハルトは猛スピードで帝国内の圧倒的な権力者としての地位を手に入れます。一方、同盟側の方はそう単純ではありません。民主主義国家の基本は文字通り民主主義にこそあります。いくら力のある者であっても、民衆の支持なしに権力の座につくことは許されませんし、その支持を保証するものこそ選挙という手続きなわけで、それを有意義なものとするためには表現の自由は欠かせないものです。この選挙という手続きなしに正当性が認められることはあり得ません。立憲主義国家の基本は自由主義(=基本的人権の尊重)と民主主義の両輪です。シェーンコップは前者を実質、後者を形式と捉えて、ヤンに対して「どうです、形式などどうでもいい、独裁者として民主政治の実践面をまもるというのは」(p120)と挑発します。しかし、そうした形式こそ実践されなければならないのが民主主義なわけで、だからこそヤンはそれに固執します。そんなことするくらいなら帝国に亡命してラインハルトの傘下に加わった方が良いでしょう(笑)。同盟側のクーデターというのはつまりそういうことなのです。クーデター鎮圧の過程は基本的には二人の天才性を引き立てるものなのでスムーズに進んでいきますが、もちろんそこには試練もあります。個人的に印象に残っているのはジェシカ・エドワーズの死です。女性の影・役割があまりに軽い銀英伝内において、彼女はかなり活躍できそうなポテンシャルがあると思ってただけに、その死が明らかになった時はもとより、シリーズ全体を振り返った時により一層もったいないように思えてなりませんでした。
 しかし、そんな彼女の死がファンの間で全然問題にならないのは他に語られるべき死があるからであり、それこそがキルヒアイスの死なわけです。いやー、これには驚きました。私は全10巻を田舎の書店でまとめ買いして読んだのでゴールまでの長さをどうしても意識せざるを得なかったのですが、まさかここで死ぬとは思いませんでした。早過ぎですよ。フラグが立ったと思ったら即死亡ですよ。もうちょっとキャラを引き出せよ。もったいない。などなど、憎憎しい思いでいっぱいでした。

 多くの人が指摘したように、ラインハルトとキルヒアイスとは表裏一体、「二人で一人前」と極言もできるキャラクターであり、「光と影」という表現でその一体性を説明してもよいかもしれません。とすれば、光と影は共棲によって高みに上り、一方が失われたとき他方もまた衰微する、という図式が必要になります。したがって、キルヒアイスはラインハルトの最盛期、すくなくとも第五巻で彼が即位する時点ぐらいまでは生きていなくてはなりません(あるいは生死がその逆とか)。
 ところが、彼はラインハルトが上り坂に足をかけた時点で早々と退場してしまいました。これによって、私は、作品を重層的・複合的に構築する要素となりえたであろうモチーフを、自らの手で破壊してしまい、このモチーフの存在と発展を期待してくださった多くの読者のかたを失望させることになったわけです。それに気づいたとき私の後悔がはじまりました。まさかいまさら死者を呼びもどすことはできません。
(TOKUMA NOVELS版『銀河英雄伝説5 風雲篇』p255のあとがきより)

 ってな感じで、作者も後悔しきりなエピソードなわけですが、しかし、今だから言うわけではなくて、だからこそ銀英伝は傑作になったと断言してしまって良いと思うのです。確かにキルヒアイスの死は唐突で、物語として大きな欠陥ができてしまったのでしょう。しかし、人の死とはまさにそういうものです。小説であるにもかかわらず死ぬべきときに死を与えられなかったこの喪失感こそまさに本当の、リアルな死そのものでしょう。キルヒアイスの死によって読者が受けた衝撃というのは、単に物語としての瑕疵を感じたからだけではなく、本当の死というものに接してしまったからなのではないでしょうか。物語における死のエピソードは無数にあれど、キルヒアイスの死ほどその時期(死そのものの是非とか死に様とかではなく)が話題になるものはないでしょう。いつ迫るとも知れぬ死というものを身近に感じてしまう恐怖。図らずもそれを描いてしまったのがキルヒアイスの死だと思うのです。
 また、上記引用の光と影の例えですが、キルヒアイスはその死によって、むしろ本当にラインハルトの影になった(あるいは”なってしまった”)と思うのです。その影響として、ラインハルトの個性を減じさせることになってしまったことは否めないと思います。欠点のない天才を人間的に描くのは影なしには困難です。その一方で、存在しないものの存在感というものを物語全体に生じさせたことも確かだと思います。ここで言う”存在しないもの”とは単に死者のことだけではありません。たくさんの人物が登場する本作は、それぞれのキャラクタの個々のエピソードのつぎはぎによって成り立ってまして、場面場面でみれば、ほとんどの主要キャラクタは存在していないことになります。そうしたエピソード同士の相関関係はキャラクタそのものでなく、キャラクタが歴史というメインストーリーに大なり小なり影響を与えているからこそなわけですが、そうした影響の引き立て役となっているのが、キルヒアイスというキャラのこれ以上ないほど大きな不在だと思うのです。キルヒアイスほどの存在であっても表舞台から退場してしまっては歴史を紡ぐことはできません。だからこそ、非才・凡才なる存在であってもちょっとしたことで歴史に名を残せる(あるいは残せてしまう)ということに説得力が生まれてくるのだと思います。キルヒアイスの死は、作品を重層的・複合的に構築する要素となりえたであろうモチーフを描く機会を喪失させてしまったのでしょう。しかし、その一方で他のキャラクターのモチーフの印象度を鮮やかにすることには貢献したと思いますし、皮肉にも結果として作品を重層的・複合的に構築することにつながったと思います。
 銀英伝は、この後も続々と主要キャラクタが死んでいきます。そうした死は、キルヒアイスの死を作者が反省したからかもしれませんが、歴史の流れの中での必然性が感じられる、言わば約束された死です。そうした死も、そのキャラクタの役割を考えるという意味では確かに印象的ではあります。しかし、そのため衝撃度ではキルヒアイスの死を超えることはありません。約束されなかった死があるからこそ、他の約束された死が作り物っぽくならずにすんでるというのは意地悪に過ぎる表現かもしれません。しかし、そんなことを考えてしまうくらい、本作におけるキルヒアイスの死というのは効果的に作用しているように思うのです。それゆえに、銀英伝は著者自身の評価以上に傑作になってしまったと言えるのではないでしょうか。まさに、”歴史の皮肉”ならぬ”歴史小説の皮肉”だと思います。
【関連】
・プチ書評 正伝1巻  正伝3巻 正伝4巻 正伝5巻 正伝6巻 正伝7巻 正伝8巻 正伝9巻 正伝10巻 外伝1巻 外伝2巻 外伝3巻 外伝4巻 外伝5巻
プチ書評 銀英伝とライトノベル