『銀河英雄伝説外伝3 千億の星、千億の光』(田中芳樹/創元SF文庫)

「高く堅固な壁と卵があって、卵は壁にぶつかり割れる。そんな時に私は常に卵の側に立つ」


ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?
村上春樹: 常に卵の側により)

 2009年にエルサレム賞を受賞した村上春樹は、その授賞式で「卵と壁」の暗喩を用いたスピーチを残しました。暗喩はあくまで暗喩ですから、その解釈には多様性があります。また、卵と壁という存在が小説内に存在する場合において、片方の視点のみから小説が書かれているということもないでしょう。卵について書いているときには卵の側に立っているでしょうし、壁について書いているときには壁の側に立っていることでしょう。つまり、卵や壁といった観点からの立ち位置の表明はあくまで相対的なものに過ぎず絶対的なものになどなり得ない、ということです。
 そうした前提を踏まえた上であえて言わせていただきますと、『銀河英雄伝説』は、壁の側に立って書かれた作品です。何が正しくて何が間違っているのかを声高に訴えているわけではありませんが、銀河に生きた英雄たちの伝説を、神の視点と後世の歴史家の視点という時間と歴史の観点から描いています。そんな仕事に何の価値があるのかといえば、それはもう比類のない価値があるといえるでしょう。
 本書はラインハルトとキルヒアイスが18歳のときの物語です。ラインハルトの身分は准将。これは異例の出世ではあるのですが、艦隊を統率する権限のない中途半端な階級が、ラインハルトに中途半端な任務を要求します。同階級の同僚の下に配属され、功績を独占される意図を見抜きながらもなお与えられた任務について最善を尽くさずにはいられないラインハルトの性分。そうした生真面目さを内省し自嘲する一方で、やがては帝国における最高位につくことを志す不遜な野心家としての情熱を燃やしながら不安を覚える日々。ラインハルトは18歳の若さにしてすでに完成された天才ではありますが、それでも、これまであまり語られることのなかった彼の個性・人間性といったものが、本書では存分に語られています。それというのも、彼が打倒を目論んでいるゴールデンバウム王朝という老朽した「壁」の存在があってこそです。
 一方、同盟側で主に描かれているのは、シェーンコップを中心とした”薔薇の騎士連隊”ローゼンリッターです。帝国からの亡命者とその子孫で構成される最強の陸戦部隊。そして、歴代連隊長の過半数が帝国に亡命しているという不名誉な看板を背負った部隊。それがローゼンリッターです。同盟領の衛星ヴァンフリートへの偵察作戦に当たり、ラインハルトの上に立ってその指揮を執ることになった人物・リューネブルク准将は、ローゼンリッターの11代連隊長でしたが、帝国に亡命してその地位を得ました。そんなリューネブルクという人物を媒介とすることによって、帝国と同盟の微妙な関係が描かれています。
 そのことはラインハルトにとって、もしかしたらあり得たかもしれないもうひとつの人生の可能性について考えさせられることになります。それが、同盟への亡命です。ラインハルトは、幼少のころに姉を売られたことによって打倒帝国を、やがては銀河を手中にすることを人生における明確な目標として位置付けることになりました。しかしながら、姉の幸せを第一に考えるのであれば、同盟への亡命という選択肢は確かに有力です。もちろん、当時のラインハルトにそのようなことなどできようはずもありませんでしたが、それでも、その選択肢自体に彼は敬意を抱かずにはいられません。つまり、反体制派として生きていくか、それとも異なる体制のもとで生きていくかというのは、実のところ紙一重なのです*1
 帝国と同盟、絶対君主制と民主主義という異なる思想を背景とした国家同士の対立によって紡がれていく銀河の歴史。そうした抗うことのできない流れを描く立場にあるからこそ語ることのできる「卵」の姿というものは確かにあります。ラインハルトという稀有な天才でも所詮は一個の「卵」に過ぎない存在として描くことができるのも、『銀河英雄伝説』が「壁」の側に立って描かれている物語だからこそだといえるでしょう。千億の星と千億の光も、どこまでも拡がる闇があればこそなのです。
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*1:キルヒアイスの同級生マルティン・ブーフホルツの生き様がサラリと挿話されることによって、こうした人生の分岐がさり気なく強調されているのも巧みだと思います。