ミステリとライトノベルの『四大奇書』

 昨年、ライトノベル系のサイト・ブログ界隈で『ライトノベル三大奇書』なるものが話題になりました(参考:『ライトノベル三大奇書ついに決定!』に反応してみる)。キッカケは、『黒死館殺人事件』が青空文庫化されたことが取り上げられたからじゃなかったかと思いますが、あまり自信はありません。それはともかく、最初のうちは面白いなぁと思いながら草葉の陰から楽しんでました。しかし、本家本元の『ミステリ三大奇書』を無視して、変なライトノベルをとにかく挙げていく方向で盛り上がり始めたので、自分としてはすっかり興味を失ってしまいました。こういうのは、やっぱり元ネタをリスペクトしながら議論した方が面白いと思います。
 で、本家本元の『ミステリ三大奇書』とは、夢野久作『ドクラ・マグラ』、小栗虫太郎黒死館殺人事件』、中井英夫塔晶夫)『虚無への供物』の3つを指します。これにときどき竹本健治匣の中の失楽』が加わって四大奇書と言われることもあります(参考→Wikipedia)。ここでは、話を膨らませるために四大奇書で考えていきたいと思います。
(以下、長々と。)
 これらの作品がなぜ奇書と呼ばれるのか? 各作品ごとの特質を私なりに一言でまとめると以下のようになります。

タイトル 特質
ドグラ・マグラ 意味不明
黒死館殺人事件 過剰な装飾
虚無への供物 狭義のメタ・ミステリ
匣の中の失楽 広義のメタ・ミステリ(メタ小説)

 『黒死館〜』の過剰な装飾、というのは、ミステリというのは基本的には、謎+伏線+論理的な解決、と乱暴に構造化できますが、それを彩り小説としての雰囲気を醸し出すための装飾、つまり薀蓄がとにかく目立つのです。ヴァン・ダイン辺りがその始祖と言えると思います。それがあまりに過剰になってしまうと装飾としての役割をはみ出しているんじゃないかと思いつつ、しかしそこが面白くなってしまうと、果たして本来のミステリって何なんだ? ってことになってしまうわけですね。
 『虚無〜』の狭義のメタ・ミステリというのは説明を要するところだと思います。ここでは、芦辺拓『紅楼夢の殺人(書評)』で提唱されている本来の意味でのメタ・ミステリ、すなわちその作品が探偵小説であること自体が探偵小説としての仕掛けにつながっている作品という意味で考えて下さい。これを『虚無〜』について当てはめて考えますと、通常のミステリ内における真実の絶対性を揶揄しつつ、しかしながらあくまでもミステリとして存在している作品、それが『虚無への供物』です。アンチ・ミステリでありながらもミステリなのです。作品内で真実の相対性を訴えながらも最後にはミステリとして着地してしまうことに腕力を感じるか技巧を感じるかは人それぞれでしょうが、この作品によってミステリの許容範囲がぐっと広がったことは間違いないと思います。
 で、広義のメタ・ミステリとは、ミステリの枠を超えたメタな作品のことで、ここまできたらミステリかどうかも怪しいのですが、そんな作品でもミステリとして受け入れてしまうところに、ジャンルとしての強かさがあると思います。広義のメタ・ミステリとは、作中作・マトリョーシカに代表されるような作品の内外・虚実が曖昧な作品のことを指します。『匣の中〜』はまさにそんな作品です。
 最後に『ドグラ・マグラ』ですが、まさに意味不明です。誰か意味が分かったら教えて欲しいです(笑)。意味不明なのにミステリとしてカテゴライズされてるのが謎です。謎なればこそ解決がなくてもミステリとして存在することが許されているのかもしれません。それだけの魅力があるのもまた事実で、なんとも言えない悪魔的な作品です。

 以上の特質を踏まえまして、ライトノベルにおける私なりの四大奇書を挙げると、以下のようになります。

タイトル 著者 特質
ロクメンダイス、 中村九郎 意味不明
陰陽師式神を使わない 藤原京 過剰な装飾
涼宮ハルヒの憂鬱 谷川流 狭義のメタ・ライトノベル
麗しのシャーロットに捧ぐ 尾関修一 広義のメタ・ライトノベル(メタ小説)

陰陽師は式神を使わない (集英社スーパーダッシュ文庫)

陰陽師は式神を使わない (集英社スーパーダッシュ文庫)

 『陰陽師式神を使わない』は、ストーリーなんかあってなきに等しく、ひたすら陰陽道について語ってます。もっとも、こちらの場合は装飾としてどうこうというより、最初からそっちメインを狙ってると思われるので、薀蓄を装飾扱いすることの妥当性に疑義がなくもないですけどね(苦笑)。ただ、『黒死館〜』を念頭に置くともうちょっと分厚い本をチョイスしたかったという気持ちはあります(笑)。
涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

 別に日和ったわけではありません(笑)。確かに『涼宮ハルヒの憂鬱』はアニメ化をきっかけに大ヒットした作品で、今ではすっかりメジャーです。こうした作品を奇書と呼ぶことに抵抗感もなくはないですが、ここで問題にしているのはあくまでも内容です。上述したような特質から考えますと、作品内で”萌え”とか”眼鏡っ娘”とか今風のライトノベルを揶揄するようなことを言っておきながら作品そのものはライトノベルの代表作になってしまっているのですから不思議なものです。 『麗しのシャーロットに捧ぐ』はミステリとして普通に傑作だと思います。ですので、ライトノベルの枠内で無理に語らなくとも『匣の中〜』にダイレクトに連なる作品として扱った方が良いか、とも思います。しかし、ライトノベルとして見たときに、この構造の複雑さはやはり異色だと思います。広義のメタ・ミステリ、メタ小説としての位置付けについては、プチ書評『麗しのシャーロットに捧ぐ』でネタばれ気味に長々と語っておりますので、興味のある方はそちらをお読み下さい。
ロクメンダイス、 (富士見ミステリー文庫)

ロクメンダイス、 (富士見ミステリー文庫)

 最後に『ロクメンダイス、』です。『ライトノベル三大奇書』の話題のキッカケは『黒死館〜』の青空文庫化かもしれませんが、そもそもの原点としてはこの作品の存在があったからこそだと思います。『ドグラ・マグラ』と肩を並べることが許されるだけの意味不明さ、小説として発表されたこと自体が奇跡の作品です。ライトノベルにおける奇書うんぬんを語る上でこの作品の名前を挙げていない人の言うことは、個人的にはまったく信用できません(笑)。他の3作は代替作があるかもしれませんが、これについては譲れません。まさに鉄板です。そんな意味不明な作品を谷山浩子の作品と絡めて魅力的に紹介しているレビューがこちらですが、ここまで言語化できるなんてすごいですよ。尊敬します。

 そんな『ロクメンダイス、』の著者である中村九郎の新刊を本日ゲットしてしまいました!

 タイトルは『アリフレロ―キス・神話・Good by 』。いい具合に意味不明です。さすがです。とりあえずプロローグ、最初の4ページだけ読んでみましたが、早くもついていけずに挫折してしまいそうなぶっちぎり感が漂ってます。でも、『ロクメンダイス、』に比べればはるかに読みやすそうではありますけどね。とにかく、半端な個性じゃありません。ってゆーか、そもそもライトノベルにおける『四大奇書』などというブームの過ぎ去った話題をなぜいまさら持ち出したかと言えば、実はこの作品の紹介をしたかったからという、ただそれだけの理由だったりします。いやー、長い前置きでした(笑)。一作の紹介にこれだけの前置きを書いたのは初めてですが、これだけ書いておきながら作品を読破する自信がないというのも我がことながらすごいと思います。ですので、「『アリフレロ』どうだった?」とかの質問はタブーの方向でぜひお願いします(ペコリ)。もし読まれましたら感想とか教えてくだされば嬉しいですが、お返事の保証は致しかねます。もっとも、無理にはオススメしませんけどね(笑)。

【2007.04.13追記】プチ書評 『ロクメンダイス、』

絶版本を投票で復刊!

【2007.07.22追記】プチ書評 『アリフレロ』