『暗い鏡の中に』(ヘレン・マクロイ/創元推理文庫)

暗い鏡の中に (創元推理文庫)

暗い鏡の中に (創元推理文庫)

「鏡に映った像も、見えはしますが物質とは異なります。それは虹や蜃気楼にもあてはまりますわ。鏡像も虹も蜃気楼もはっきりと見ることができ、写真にも写ります。でも手で触れることはできません。立体ではなく、音も立てません。普通の意味での時空には存在しないものです」
(本書p110〜111より)

 1948年発表の短編「鏡をもて見るごとく」の長編化とのことですが(ちなみに本作は1950年発表)、あいにく私は短編版は未読なのであしからず。
 女性教師フォスティーナはブレアトン女子学院に勤めてわずか5週間で突然理由も告げられずに解雇される。親友が受けた仕打ちに激怒した同僚ギゼラは恋人の心理学者ベイジル・ウィリング博士に彼女が解雇された原因の調査を依頼する。そこで明らかとなった原因は不可解極まりないものであった。博士は困惑しながらも事件の解明に挑むが……といったお話です。
 古典にして紛うことなき傑作。ですが、本書の内容に過剰に踏み込むことなくその魅力を伝えるのはなかなか難しいです。いわゆるドッペルゲンガーが題材の幻想ミステリの傑作、くらいなら言ってもいいかな、とは思うのですが、ホントのホントは何の予備知識もないままに読まれたほうがいいに決まってるとも思いつつ、でもでもそれでは若い読者には伝わらないし広がらないな、とも思うのです。
 以前に書いた記事、『うみねこのなく頃に』好きにオススメのミステリ小説にて『火刑法廷』(ジョン・ディクスン・カー/ハヤカワ文庫)をオススメ作品として挙げましたが、本書読了後に今であれば『火刑法廷』の代わりに本書をオススメします。つまり本書はそういう作品です。

「非科学的な現象はどうしても受け入れる気になれないみたいね。わたしはヨーロッパで育ったから、あまり抵抗はないの。ヨーロッパ人は古い文明を持っているがゆえに、どんなことにも懐疑的なのよ。アメリカ人が信仰に近い敬意を払っている現代科学に対しても」
(本書p208より)

 『うみねこのなく頃に』の煽り文句は「アンチミステリーVSアンチファンタジー」というものでしたが、アンチとアンチとが戦うこと自体不毛な議論というのはさておき、幻想ミステリというジャンルを考える上でファンタジーとミステリという両ジャンルの関係は押さえておきたいです。『幻想文学(55)【特集】ミステリVS幻想文学』p81以下所収:福井健太「合理と幻想が融合する巨木」において、島田荘司の『本格ミステリー宣言』での「ポーが幻想小説の幹からミステリーを枝分かれさせた創始者であることには、異論は少ないはずである。」という主張を踏まえつつ、

 この主張に沿っていうならば、現代におけるアンチリアルなジャンル小説の多くと同じように、ミステリもまた幻想文学という巨木から分かれた枝だということになる。幻想文学が持っていた「幻想的な謎」に「合理的な解決」を付加したアクロバティックな小説こそが、すなわちミステリにほかならない。双方のジャンルに冒頭で述べたような共通項*1があるのは、だから極めて当然のことなのである。
 しかし――こうして生み出されたミステリは、幻想文学の嫡子であると同時に、強烈な破壊力を持つ鬼子でもあった。「合理的な解決」が与えられた瞬間、幻想は幻想としての属性を失い、理に落ちた「現実」の集合体に還元される。言い換えればミステリとは、あらかじめ合理性に敗北すべく作られた幻想的光景が、抗いようもなく合理に分解される過程を描いた異形の幻想文学なのである。
(『幻想文学(55)【特集】ミステリVS幻想文学福井健太「合理と幻想が融合する巨木」p84より)

というように両者の関係について述べられています。
 本書はストーリー自体はシンプルですが、ミステリとファンタジーという両ジャンルの愛憎半ばの関係を顕在化した作品として、極めて稀有な傑作だといえると思います。『火刑法廷』との比較でいえば、探偵と犯人(?)の対話がある分だけ『うみねこ』読者向けだと思います。また、『火刑法廷』がノンシリーズ作であるのに対し、本書はベイジル・ウィリング博士というマクロイのシリーズ探偵が活躍しています*2。つまり、同じ趣向を実現するためにカーはノンシリーズという特殊な世界観を選択したのに対し、マクロイはシリーズものという基本的な世界観の中で本書のような”危うさ”を表現することを選択したといえます。本書のような懐疑心を基本的なものとするからこそ、恐怖度において本書は『火刑法廷』を上回っているのだと思います。とにもかくにも強くオススメの一冊です。

火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1)

火刑法廷 (ハヤカワ・ミステリ文庫 5-1)

幻想文学 (55)

幻想文学 (55)

*1:本稿p81”ミステリと幻想文学における「謎」を比較してみれば、それらが共通の美学を持っていることは一目瞭然であろう。”

*2:とはいえ、本書を単独で読んでもまったく問題ありませんのでご安心を。