『クドリャフカの順番』(米澤穂信/角川書店)

クドリャフカの順番―「十文字」事件

クドリャフカの順番―「十文字」事件

 〈古典部〉シリーズ3作目は2005年、単行本での刊行です。それまでは角川スニーカー文庫という、いわゆるラノベレーベルからの刊行でしたが、本書で方針転換が図られました。もともと1巻からして作中に挿絵とかまったくありませんでしたから妥当な流れだと思います。
(ちなみに、本書の初版にはかなり重大な誤植があります。二版以降は修正されているとのことですが、初版をお持ちの方は著者のサイトの正誤表を必ずご確認下さい。)
 なぜこれまで挿絵がなかったかと言えば、推測ですけれど、せっかくの一人称一元視点の描写を殺したくなかったというのはあると思います。イラストを頼んじゃうともしかしたら奉太郎の表情が描かれてしまう恐れがありまして、そうでなくても奉太郎視点以外のカットがあったりしたら台無しです。挿絵なしは正しい選択だと思います。
 ミステリにおける一人称視点による語りの場合、客観性をどうやって保証するかという問題が発生します。
【参考】続・三人称視点の語り手は誰?
 本シリーズの場合ですと、客観性を保証するような仕組みは別段講じられていません。しかし、読者は特に奉太郎の視点にアンフェアさを感じたりはしないでしょう。本シリーズは基本的に奉太郎の一人称視点に徹しているわけですが、そこでは”思い”よりも”考え”に重点が置かれています(両者の区別は程度問題に過ぎないと思いますが)。そして、そうした描写は私たちの普段の脳内思考と照らし合わてとても自然なものだと言えます。喜怒哀楽といった感情は脳内で言語化する必然性は低く、その一方で、考えは言語化する必要が高いからです。そうした配慮に基づく奉太郎の語りは、あくまで奉太郎自身の思考として読者に届けられます。奉太郎が読者を騙す理由は何ひとつありません。また、奉太郎が奉太郎を騙す理由もありません。つまり、本シリーズにおいては、自然な一人称描写に徹することで客観性が担保されている、ということが言えると思います。それによって物語の視野が狭くなるというデメリットは当然あるのですが、それによって少年の内面に焦点があてられるというメリットの方が遙かに大きいでしょう。また、自分には嘘をつかないという心理描写のあり方が、爽やかさと苦さという読後感にもつながっているのだと思います。
 ということで、本シリーズにおける一人称視点からの語りによる魅力について長々と語ってきましたが、本書はご承知の通り奉太郎以外の3人の古典部員の視点からも語られます。すなわち、一人称多元視点による語りです。ですから、普段は語られることのない古典部員たちの心情が語られます。これにより彼女たちの個性を再確認し、あるいは意外な一面を知ることができます。また、人物間同士の関係を知る上でも多元視点はとても有効に機能しています。とりわけ、他の視点から見た奉太郎という人物の輪郭は興味深いです。

「無視すればいいじゃない」
「それができる相手じゃないから、面倒なんだろうが」
 顔をしかめる折木。
 ふふん。
 ばーか。
(本書p182より)

 これは伊原視点からの描写です。普段の奉太郎視点のみからだと、面倒なのは千反田の存在ということになりますが、伊原視点だと、面倒なのはそう思ってしまう奉太郎の気持ち、ということになるでしょう。この辺りの多面性が面白いです。文化祭という特殊な熱気に包まれる空間を描写するに当たって、ものぐさな奉太郎視点でははなはだ不都合という事情があったにせよ(笑)、本書の多元視点は物語的にもキャラクタ的にも上手く作用していると思います。
 ミステリとしては、作中でも述べられているとおり”わらしべプロトコル”なご都合主義で進んで行きますので論理的な展開とは言えません(文化祭の特殊性を考慮すると別に不自然だとは思いませんが)。しかし面白いです。
 文化祭中に発生した何者かによる連続盗難事件。残されたメッセージの署名から「十文字」事件と名付けられますが、その盗難先の法則性からミッシングリンク(参考:Wikipedia)の問題が浮かび上がってきます。ミッシングリンクとは一見無差別に思える被害者同士における関連性のことで、ミステリでは良くあるお約束のテーマです。ただこのミッシングリンク、定義からもお分かりの通り、これを解いたとしても被害者の共通性が分かるだけで直接犯人の特定につながるようなものではありません。ですから、仮に探偵がミッシングリンクを明らかにしても、犯人は依然として不明のまま被害者候補だけが半端に特定されて大衆の間にパニックが生じるということになりかねません。なかには、ミッシングリンクをミスリーディングの手段として活用しているものまであります。そうなると、ミッシングリンクが分からない方がいいという場合すら考えられます(実際、クリスティの『ABC殺人事件』はヒントとして時刻表が置かれていました)。そこから犯人を特定するためにはプロファイリング(参考:Wikipedia)と呼ばれる捜査手法を活用するか、あるいは全然別の証拠に基づいて犯人を特定する必要があります。
 ところが、本書では明らかになったミッシングリンクから暗号(の一部)としての意図を読み取り、そこから犯人の特定へとつながっています。これは意外に貴重なケースだと思います。読んで良かったです(笑)。
 小難しいことを長々と語ってきましたが、本書を読む上では四人四様な文化祭に対しての姿勢とか行動とかのエピソードを素直に楽しむのが吉だと思います。個人的には、伊原サイドから見た文化祭に非常に引き込まれました。私の記憶にある文化祭とは違って随分アクティブで羨ましく思ったのは内緒です(私の文化祭なんて居場所がなくて困りました・笑)。
 以下は雑感です。本書のカバーを外しますと、そこにはロシア語の文章があります。意味が分からなくて気になる方は以下のリンク先をどうぞ。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1488011.html
 それとは別に気になることが……。

 そう。事件の数が揃うのを待って、一見しただけではわからない被害者たちの共通項(これが失われた繋がり、ミッシングリンクというものだ。失われた輪、ミッシングリングとも言う。本来はどっちだったんだ! わたし、気になります)を求めたり、犯人がミスをするのを待ったりする。
(本書p212より)

 どっちだったんだ! わたしも気になります(笑)。
 本書では、クリスティの代表作として『ABC殺人事件』『そして誰もいなくなった』『オリエント急行の殺人』『アクロイド殺し』の4作が挙げられています。これらのうち、『ABC』については「十文字」事件がこれを元に行なわれているわけですが、残りの3タイトルも本書では意識されているように思います。本書では章ごとに文集が減っていきますが、これが『そして誰もいなくなった』。「十文字」事件の解決のさせ方は『オリエント急行の殺人』。そして、その結末の語り方が『アクロイド殺し』、というのは深読みが過ぎるでしょうか?(笑) いずれにしろ、この4タイトルは単にクリスティの代表作であるにとどまらず、ミステリを語る上での必読書としてもオススメしないわけにはいかないので、未読の方がおられましたら一読を強く推奨します。
【関連】
プチ書評 『氷菓』
プチ書評 『愚者のエンドロール』
プチ書評 『遠まわりする雛』
【参考】
ABC殺人事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) アイヨシの書評 『ABC殺人事件』
そして誰もいなくなった (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) アイヨシの書評 『そして誰もいなくなった』
オリエント急行の殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) アイヨシの書評 『オリエント急行の殺人』
アクロイド殺し (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫) アイヨシの書評 『アクロイド殺し』