続編の前に『天帝のはしたなき果実』を回想してみる

アイヨシに『ウルチモ・トルッコ』の書評を振ったら3倍になって帰ってきました(笑)。(6月に延期したみたいですが)
『天帝』に続編が出ること自体衝撃ですよ。
なぜかというとですね、
(以下、ネタバレぎみに回想)
『天帝のはしたなき果実』はミステリと思わせといてSF(学園伝奇)という脅威の荒業でした。
これは好意的に解釈すると、ミステリというジャンルそのものを一つのトリックとして利用したといえます。
メフィスト賞受賞作であり、大多数の読者はミステリという先入観をもってこの本を読みます。そこで作内でミステリから他ジャンルに移行することで、読者の裏をかいているわけです。
これまでもSFとミステリの融合作品はありましたが、物語そのものはあくまで「ミステリ」という枠内に着地する(ミステリ的解決をする)ケースがほとんどでした。
しかしこの作品は「ミステリ的解決」をしません。いわゆる「ミステリ読み」は『天帝〜』に拒否反応を示すでしょう。
なにせラーメンを食べようと思って食べ始めたのに汁の底にカレーライスが沈んでたようなものです。「これラーメンじゃねえよ!」って怒る人もいるし(フジモリも実際「なんじゃこりゃ!」ってなりかけました)、「これはこれでありか」って思う人もいるでしょう。
特にライトノベルに慣れ親しんでいる人ならジャンルの混合には慣れているんで拒否感は少ないかと思われます。「おいしけりゃなんでもいいよ!」っていう感じ。
ぶっちゃけて言うと、西尾維新が何巻にも渡ってミステリから伝奇にジャンル移行していったのを、『天帝のはしたなき果実』では1巻でやってしまったようなものです。
長々と語ってきましたが結局何が言いたいかというと、1巻で書ききった感がある『天帝』の続編ってなにやるんだ?ってことです。ふつーの学園伝奇だったらがっかりして書評のトーンがだだ下がりになりますのでその場合は察してください(笑)。
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天帝のはしたなき果実 (講談社ノベルス)

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