古野まほろ『天帝のつかわせる御矢』講談社ノベルス

天帝のつかわせる御矢 (講談社ノベルス)

天帝のつかわせる御矢 (講談社ノベルス)

おそらく最速レビューです。古野まほろ『天帝のつかわせる御矢』読了。
なんというか、普通に面白かったです。
端的に言うと、主人公古野まほろが豪華寝台列車で密室殺人事件に巻き込まれる話です。
前作を少しでも読んだ人ならわかると思いますが、この本は異常なまでに表現がくどいです。
今作も相変わらずの過剰装飾だったので、ついカッとなって何が過剰なのか箇条書きにしてみました。過剰だけに!
1.単語の装飾(ルビ)が過剰。
2.言語の装飾(複数言語の輻輳)が過剰。
3.知識の装飾(音楽、文学、ミステリ、漫画など)が過剰。
4.登場人物の装飾(肩書き)が過剰。
5.登場人物の性格の装飾(中ニ病)が過剰。
6.登場人物の設定の装飾(人外)が過剰。
7.舞台の装飾(前作は学園、今作は列車)が過剰。
8.世界の装飾(軍国+現代)が過剰。
9.物語演出の装飾(読者への挑戦状)が過剰。
10.物語そのものの装飾(古き良きミステリ)が過剰。
11.物語ジャンルの装飾(ミステリ+SF)が過剰。
見事なまでの装飾過剰のオンパレード(笑)。しかしながら、これらの過剰を全て取り外すと、前作は「青春小説+ミステリ」、そして本作は「ミステリ」と極めてシンプルで濃い部分が残されます。
誰が言ったのかは忘れましたが、ミステリから「物語」と「教条主義」を省くと「パズル」が残る、という言葉は皮肉にしてある意味一部真実を言い当てています。
どうせ装飾するなら過剰にしてみよう、そういった作者の思惑や意図があるのかは知りませんが(しかしながら、作者は確信犯的に事件の謎と登場人物のアリバイ表と出来事から導かれる定理を、ご丁寧にも登場人物の口を借りて読者に分かりやすく太字にして説明しています!)、とにかく「天帝」シリーズはいやらしいほど様々な装飾が過剰です。その装飾にアレルギー反応を示して本を置くのも良いでしょう(ある意味、普通の反応です)。しかしながら鼻をつまんで口にするのもまた粋というもの。
本作は豪華寝台列車という過剰装飾な舞台で密室殺人事件という過剰装飾な事件が起こります。そして最後には前回と同じく「虚無への供物」的な名探偵もどきの推理合戦という過剰装飾な演出が待ち構えています。
思うに、ミステリという非現実的な世界の「うそくささ」を消すためのひとつの舞台装置としてこの「過剰装飾」は有効なんじゃないのか?と思ってしまいました。
前作を読破し、この過剰装飾が「芸」として許容できた方なら、今作を読んで損は無いと思います。
逆説的に「ミステリ」という存在について考えさせられる、そんな一冊でした。
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