たまには書評サイトとして書評について考えてみる。

 うちはこう見えて一応書評サイトなので(笑)、たまには書評とは何かについて考えてみたいと思います。
(以下、無駄に長々と。)
書評とは、「読み手のストリップ」である。 : ある編集者の気になるノート

言うなれば、書評という行為は、「その本を読んだ自分が丸裸になること」だ。
持ち前の厚顔で、毎回思い切りよく脱いではいるけれど、裸の自分をさらすのに恥を覚えなくなったわけではない。

 上記リンク先では、書評をストリップに見立てています。一理あるとは思います。が、一理しかないようにも思います。書評とは自分の内面をさらけ出す行為には違いないので、その意味では確かにストリップですが、そんなこといったらすべての表現行為がそれに当てはまるでしょう。ストリップ性ということなら、素直に考えて、書評よりも日記とかの方が遥かに高いと思いますけどね。
 とはいうものの、書評という表現行為には、ときに自分でも思いもよらないような内面・恥部を晒しかねない危険な一面は確かにあると思います。単に自分の思いや考えを述べるよりも、他者の思考や感情とすり合わせることで、より先鋭なものとして浮かび上がってしまい、結果としてとんでもないことを書いてしまう。表現行為としての書評の特殊性とはそういうことだと思うのですが、もう少し深く考えてみたいと思います。

書評とは「酔っ払いの醜態」である。

 書評とは何かを定義するのは難しいですが、無理気味に単純化しますと、まずは「何が書かれているか」を把握し、そこから「何が読み取れるか」を整理し、それらを基に「何を考えたか・どう思ったか」言語化するといった経路をたどるのだと思います。
 「書かれていること」と「読み取れること」は同じことではないのか? と思われる方もおられるでしょう。そう言われると、実のところ返す言葉もありません(笑)。見ようとしなくても見える場合と、見ようとすることで見える場合との認知論的な問題意識はとりあえず置いときますが(汗)、いずれにしても、見えてるものを素直に受け入れるのも読み手として大事な素養であることは間違いありませんし、本当ならそれだけで良いのかもしれません。
 ですが、「書かれていること」と個々が思っているものが必ずしも同じものだとは限りません。といいますか、完全に同一であることなどまずないでしょう。そうなりますと、他者の見たものを理解するために、自分の見たものを前提・判断基準とした解釈という技法が必要となります。また、「書かれていること」を素直に理解しようにも、記述に曖昧な点があったり意味不明な展開だったりで、どうにも理解に苦しむことはあるでしょう。そういう場合にもやはり解釈によってその意味内容を明らかにするのも、立派な読み方・楽しみ方のひとつでしょう。
 そうした解釈の場面において私が拠り所とすることが多いのが、ネタばらしになりますけど(笑)、法解釈の技法(参考:法解釈 - Wikipedia)です。基本は文理解釈(文言解釈)ですが、読みの多面性の確保や内容の理解のために他の解釈も適宜行ないます。小説の読み方など自由で構わないと思うのでそうした解釈技法の行使もまた自由でしょうし、ミステリを読むときには拡大解釈は行なわない*1くらいの自分ルールはありますが、絶対遵守というものでもありません。読書は楽しんでナンボが基本ですので(笑)。
 書評には、主観と客観とが混同しているという非難がなされることがありますが、そういうのは「書かれていること」と「考えたこと・思ったこと」の区別が曖昧だったり、あるいは「考えたこと・思ったこと」を優先するあまり「書かれていること」を歪めていたりで、結果として虚偽の内容を書評の読み手に伝えることになってしまいます。自戒の意味も込めて気をつけなくてはなりません。
 ただ、「読み取れること」が主観・客観のどちらなのか?となると、一概には何ともいえません。「書かれていること」を素直に書いたつもりであったとしても、自分の言葉にした時点で読み手のフィルタを通過した「評価」へと転じてしまいます。なので、主観と客観の混同というのは確かに厳に慎まなくてはならないことではありますが、それを絶対的なものとして割り切ることの困難性というのも強調しておかなくてはならないでしょう。
 主観と客観との混同は、別に小説でなくとも、ニュースや論文・判例などを読んだりする場合でも避けることのできない厄介な問題です。その上で、小説(あるいは物語)の場合に特有の問題があるとすれば、それは物語(登場人物)への感情移入だと思います。感情移入によって、作品と読者という関係の中に幾重もの人格が生まれては消えていきます。それに伴い、「読み取れること」を通じての主客の混同が制御不能なまでに進行することで、ときに書いてあることを捻じ曲げ、ときに偏見丸出しの感想を書いてしまうことになる、ということなのだと思います*2
 例えるなら、書評というのは、ストリップというよりは酔っ払いが醜態を晒すのに近い(脱ぎ癖もその中のひとつ)ように思うのです。小説に酔いしれてつい口が軽くなってしまうような、そんな感覚です。なので、他人様に迷惑をかけない範囲で楽しくお酒が飲めればいいなと。そんなことを考えながら日々酔っ払ってることになりますが(笑)、お酒の味を楽しむことを忘れない一方で、お酒に飲まれないように気をつけながらやっていきたいとも思っています。

雑誌とブログの違い

 上記リンク先内の引用文で気になったのが以下の箇所です。

 よくあんな怖いことを原稿料ももらわずにできるなと、私も思います。雑誌のライターをやっていて救われているのは、1カ月もあったらこの世から消えちゃうからですよ。ブログでレビューを書いている人たちは、自分の文章がずっと残って検索されていくことの怖さを知っているのかな。

 孫引で恐縮ですが(汗)、本当にずっと残っていくものでしょうか? このブログは3人の管理人で運営していますので、私一人がこの瞬間に即死したとしてもブログの維持存続は余裕で可能です。ですが、3人とも死んだらどうなんでしょうね? 本当に残ってくれますか? だったらむしろ積極的に遺書代わりの妄言を書き残しておきたいようにも思いますが(笑)、そういうことはまずなくて、いつかは消えるでしょう。
 それに、確かにずっと検索されている状態にあるというのは面白さであり怖さでもありますが、内容の訂正はいつでも可能ですし、やばいこと書いちゃったと思えば速攻で削除することもできます。修正前のものを魚拓されてたりしたら痛いのは確かです。でも、「後法は前法に優先する」じゃないですが、きちんと対処すれば特に問題ないでしょう*3
 プライバシー侵害記事を書いてしまった場合などに起きる雑誌の差し止め・回収騒動もブログだと無縁ですし、その意味では遥かに安全で気楽です。ぶっちゃけ、細かい修正やリンクの追加などを含めれば書き直しなんて日常茶飯事ですよ(笑)。そんな自由さがブログに限らずサイト運営の醍醐味です。
 逆に訊きたいのですが、雑誌って本当に1カ月で消えますか? 私は学生時代に論文を書いたことがありますしそういう方は多いと思いますが、一度書いたら二度と修正できないというのにはプレッシャーを感じるものです。未完成の論文なんて本来なら指導教授以外には見せたくありませんでしたが、ミスを極力避けたかったので何人もの方に事前に読んでもらいました。もっとも、そんなの今では誰にも読まれてないでしょうが、それでもそれが消えたとは思ってませんし思えません。きっとどこかで存在し続けることでしょう。ああ嫌だ嫌だ。それこそ、お金を貰わなくてはやってられませんよ。まあ、その代わりに単位を貰ったわけですが(笑)。
 というわけで上記の記述は的外れな指摘じゃないかと思うのですが、どんなもんでしょうね?

点と線と面のレビュー

レビューサイトの方針 点と線と面のレビュー - karimikarimi

点のレビューでは、基本的にその作品にしか触れません。
一つの作品について、ひたすら語ります。
(略)
線のレビューは、歴史的または役割的に語るレビュー。
(略)
線のレビューは、歴史的と役割的を語るレビュー。

 うちもそうですが、ネット上では基本的に点のレビューがほとんどですね。とりあえず一冊読めばその本については語れるわけですから当然といえば当然ですが、それと反比例して線や面のレビューは少なくなってしまっているように思います。
 点のレビューが増えればそれだけ線や面のレビューが埋没していくのは当たり前のことはありますが、それにしてもね。とは思います。教養主義の崩壊に伴う批評の難しさ、とかはもちろんあるのでしょうが、原因のひとつに最近の主流であるブログの形式というのも少なからず関与していると思います。日々の更新を基本とするブログでは一日一日という「点」が基本の更新単位となります。更新リズムも形式にひきずられることで「区切り」が必要となって、点のレビューが基本となっている、そういうことでしょう。
 別にそれが悪いというわけではもちろんないのですが、たまには一冊の深度よりも広がりを求めた読み物があってもいいんじゃないかと思いますし、私としてもたまに書いてたりするのですが、アクセスなどの反応は正直微妙ですね。ってかほとんど読んでもらってないし。まあ、懲りずに続けて行きたいと思います(笑)。
【関連】書評と感想の違いについてつらつら語ろうとしましたが失敗しました。 - 三軒茶屋 別館

*1:逆に言えば、拡大解釈を行なわなければ意味が通らないようなミステリはミステリとして失格。

*2:もっとも、結局は程度の問題に過ぎないと思いますが。

*3:もちろん限度というものはありますが。