『時を巡る肖像』(柄刀一/ジョイ・ノベルス)

 絵画修復士・御倉瞬介が、絵画の復元に携わりながら絵画や画家・モデルといった絵と人間の心の傷に迫る連作短編集です。絵画修復士という描き手と読み手との中間的立場から見えるミステリとしての風景が独特の魅力を持った作品集です。

ピカソの空白

 見て取る力と、描きあげる力。
 どちらか一方しかないのも悲劇だろうが、両方の力を常識はずれのレベルで与えられた人間には悲劇は起こらないのかと、瞬介は時に想像することがある。
(本書p13より)

 「描きあげる力」とは、小説に例えれば「言葉にする力」ということにでもなるのでしょうが、読者は読む者である以上、大抵は「見て取る力」の方に神経を集中しつつ、「描きあげる力」の持ち主である作家に敬意を抱いているものだと思います。しかしながら、日常的な趣味として読書を楽しみ続けると、「見て取る力」の行使というものが惰性になりがちです。そうした読み方に論理や驚きでもって警告を与えてくれるのがミステリというジャンルの有難味ではありますが、本作はそうした「見て取る力」が直接的なテーマとして描かれています。鏡像によるアリバイの成立・不成立という謎解きの先に見える形容しがたい心象風景。収録作中の白眉です。

『金蓉』の前の二人

「絵を描くにはできる限り自由でなければならないが、束縛もまた面白い、と安井曾太郎は言っていますよ」(略)「その面白さが肖像画にはある、と。芸術性の前に立ちはだかる、モデルに似せることの束縛などを表現しているんでしょうね」
(本書p57より)

 法哲学では「事実的自由(freedom)と法的自由(liberty)」などと言われることがあります。無秩序の中の混沌と秩序の中の自由との区別。法律の枠内での自由権の行使という現実。可能な限り自由を侵害しない範囲の法であったものが、いつの間にやら法律を侵害しない範囲の自由へと価値判断が転倒していくと、そもそもの目的が一体なんだったのか分からなくなってきます。そんな手段と目的との価値観の転倒は本作の結末にも通じるものがあると思います。
【参考(ネタバレ注意)】柄刀一『時を巡る肖像 絵画修復士御倉瞬介の推理』感想きたろーの本格ミステリ雑感

遺影、『デルフトの眺望』

 ダイイングメッセージものですが、これを読者が解くのはまず無理というものでしょう。『デルフトの眺望』やフェルメールについての薀蓄を素直に楽しむのが吉です(笑)。

モネの赤い睡蓮

 青と緑の色彩揺らめくクロード・モネの『睡蓮』を見て「わたしは赤い睡蓮の呪いにかかったようです」と呟く老画家。ちょっとネタバレになりますが、タイトルからも仄めかされているとおり色盲が問題となります。つまり、「見て取る力」です。そこには、視認する力・認識する能力が大きく関わってくる一方で、画家としての原動力とは何かも問われます。
 ちなみに作中では一貫して「色盲」という言葉が使われていますが、「盲」が差別的なニュアンスを含むという立場から「色覚異常」という言葉が使われている場合もあります(参考:色覚異常 - Wikipedia)。本書ではこの点について編集部の注釈として納得がいく説明がされている(本書p196参照)ので「色盲」の表現が適切だと思いますが、難しい問題ですね。

デューラーの瞳

 技巧的なトリックが用いられているという意味では、本書中で一番ミステリらしいミステリです。もっとも、絵画ミステリらしさには欠けているのは否めませんが(苦笑)。

時を巡る肖像

 ミステリというのは、事件が起こるまでの描写と、何が起こったのかを探り出す描写との、二つの時間の流れが交錯します。本作はそうした時間の流れが直接的に描かれています。時間という観点からのミステリの構成が、変則的ながらも「時を巡る肖像」を表現するものとして用いられています。未来のための指標として。博士が愛した数式というツッコミを入れたくなりますが(笑)、連作短編集の最後をしめるのに相応しい読後感です。