ミステリと民主主義

ミステリーの社会学―近代的「気晴らし」の条件 (中公新書)

ミステリーの社会学―近代的「気晴らし」の条件 (中公新書)

推理小説作法―あなたもきっと書きたくなる (光文社文庫)

推理小説作法―あなたもきっと書きたくなる (光文社文庫)

ミステリとデモクラシー説

 ミステリ(探偵小説)が書かれ読まれる社会の精神的風土の説明するものとして、デモクラシー説と呼ばれるものがあります。

デモクラシー説
 古典的推理小説の読まれる社会的条件については、ハワード・ヘイクラフトの有名な説がある。彼は英高等法院主席判事の言葉――「犯罪物語と区別される探偵物語は、読者の共感が正義の手を逃れようとする犯人の側にではなく、法と秩序の側にある安定した社会でのみ栄える」――を引きつつ、「政府が我らの政府であれば我らの共感は我らの作った法に集まる。政府が奴らの政府であれば、我らの共感は本能的に、奴らが狩り立てている一匹狼に集まる」として、民主主義こそが探偵小説を繁栄させる基本条件のひとつだと説いた。
『ミステリーの社会学』(高橋哲雄/中公新書)p113より

 また、こうしたデモクラシー説を受けて、

 探偵小説は市民社会の産物だと言われている。ポー、コナン・ドイル以来、探偵小説は、イギリスやアメリカに栄えている。フランスやドイツにも、何人かの有能な作家が登場したが、探偵小説の本流から見れば、あくまで傍流にすぎない。また、ロシヤとか中国などのような独裁国や遅れた社会には、ほとんど根をおろさなかった。つまり、探偵小説は、アングロ・サクソン民族とともに栄えた、一小説形式である。そして、この現象は、イギリスやアメリカが、民主主義のもっとも進んだ国であったという点から発しているのだ。いや、探偵小説は、民主主義を前提にしているとさえ言える。
推理小説作法』(光文社文庫)所収『推理小説のエチケット』(荒正人・著)p140より

というようにミステリの発展過程を説明している言説もあります。
 それでは、民主主義がミステリの基本条件であり前提であるとは、具体的にはどのようなことを意味するのでしょうか? 以下、非民主的国家を舞台としたミステリを参考にしながらつらつらと語ってみたいと思います。

ミステリと拷問の禁止

 上に紹介した『ミステリーの社会学』と『推理小説のエチケット』の両者が挙げているのが市民的自由・基本的人権からくる拷問の禁止との関係性です。

 たしかに、一般的にいって政治警察や軍事政権の下で密告、検問、拷問がふつうのことになっていて市民的自由が制限されているような国では、証拠にもとづく推理によって事件を解決しようという精神は育たない。また地図や電話帳、時刻表、風景写真までが国家機密とされるような国では、うかつに”探偵ごっこ”や”謎探し”ができる空気はない。
『ミステリーの社会学』p114より

 容疑者が検挙される。民主主義の発達していない社会においては、拷問によって、犯行事実を自白させる。こうした社会では基本的人権が認められていないから、容疑者、すなわち犯人という扱いが許されていたからだ。
推理小説作法』p140〜141より

 民主主義という字義からして、民衆が同意すれば拷問も許されるのでは?という考え方もないではありません。しかしながら、近代の立憲主義国家の多くはそうした考え方を採ってはいません。主権が国民にあるということが国家と国民の利害の同一化を意味する以上、民主主義の名の下に個人や少数者の尊厳が否定されるようなことがあってはならないと考えるからです。このように、基本的人権を尊重する自由主義と民主主義の調和を図るのが近代の立憲主義の意義です。したがいまして、ミステリの前提として自由権との関係を挙げる上記の主張は極めて妥当なものだといえるでしょう。

ミステリと裁判

 確かに拷問によって真実を自白させることはできるでしょうが、その反対に、拷問によって虚偽の自白を迫ることもできます。客観的な証拠を推理の根拠とするミステリの思考は、警察という行政権と、裁判所という司法権とが分離している権力分立下における公正な裁判を行なうためにも必要なものなのです。立法・行政・司法の権力分立の概念は、権力を特定の人間に集中させないという考え方によるものですが、その根底には個人の自由の尊重があります。個人の自由を尊重し共感するからこそ、権力は分立されています。
 裁判を題材にしたミステリ、すなわち法廷ミステリは、そうした制度的な裏付けなしに成立することが難しいジャンルです。

ミステリと独裁主義

アデスタを吹く冷たい風 (ハヤカワ・ミステリ 646)

アデスタを吹く冷たい風 (ハヤカワ・ミステリ 646)

 民主主義には君主制独裁制の否定という側面があります。『アデスタを吹く冷たい風』では、架空の軍事政権を舞台とした短編4作が収録されています。探偵や読者が行なう推理においては論理性や合理性といったものが重要ですが、そうした思考を突き詰めていくことで雑音として立ち上がってくるのが権力者の恣意です。それは政治的圧力・権力として現れ、思考や真実を歪めようとします。
 民主主義・国民主権という概念には、君主制独裁国家の否定という側面があります。君主や独裁者の恣意的な支配から逃れるために国民による統治という考えが生み出されました。ミステリと民主主義には、恣意的な支配の否定という共通性を見い出すことができるでしょう。

ミステリと法の支配

ゴーリキー・パーク〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

ゴーリキー・パーク〈上〉 (ハヤカワ文庫NV)

 人間による統治ではなく法による統治。権力者の気まぐれな意思の対象とされることなく個人がその意思にしたがって行動する自由を確保するための原理。それが法の支配です。三権分立が採用されている民主主義国家においては、立法府と司法府の分離によって、法というルールの一般性が確保される一方、立法により行政が制約されることによって国家権力の恣意性がコントロールされています。
 『ゴーリキー・パーク』は1970年代のソ連が舞台になっていますが、以下のようなやりとりが作中にあります。

「個々の犯罪の解決が、いや、実際に法律そのものが、現実の政治体制の紙のお飾りにすぎないからなんだ」
「いまのように空想と現実を混同する裁判官や捜査官がいるときは」アカデミー会員が言った、「そして紙に書かれた法律条項が法律執行機関の仕事を窒息させているとなれば、法律というお飾りはおろすべきだ」
ゴーリキー・パーク』上巻p183〜184より

 権力者によって法律が恣意的に歪められる社会では、法律は自由を保障するものではなくそれを制限するものとして機能してしまいます。そうした法律の運用は、今まで読んでいたミステリの文章が突然変えられてしまうのと同じようなもので、そこには真実など存在するはずがありません。文言の恣意的な解釈がタブーなのは法律もミステリも同じです。
 恣意的な法律の運用は、その執行を担当する捜査官たちの良心を苛み歪めていきます。国家と個人の正義の乖離。そこに『ゴーリキー・パーク』の苦悩と悲劇があります。

ミステリと思想・良心の自由

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

チャイルド44 上巻 (新潮文庫)

嘆きの橋 (文春文庫)

嘆きの橋 (文春文庫)

 『チャイルド44』スターリン政権下のソ連での連続殺人事件が捜査の対象となりますが、それを行なう主人公である捜査官の障害となるのは、この社会には犯罪は存在しないという国家のイデオロギーそのものです。チカチーロ事件が本書のモチーフとなっていますが、団体主義的な思想のもとにいくら個人を支配しようとしても律しきれるものではありません。現実と理想の間には常にギャップがつきまといます。それを無視したところに惨劇が生まれます。
 国家によるイデオロギーの強要は、捜査官たちの自由な思考・発想の芽を奪います。上から押し付けられた画一的な捜査方法により看過される真実。その枠から外れた捜査をしようとする捜査官には反逆者の烙印が押されます。こうした国家にあっては、探偵という行為そのものが命がけになってしまいますし、ミステリが書かれたり読まれたりするのも難しいでしょう。
 また、オレン・スタインハウアーの『嘆きの橋』『極限捜査』と続く〈ヤルタ・ブールヴァード〉シリーズは、第二次世界大戦終戦後から始まる東欧の架空の小国を舞台としたミステリです。 歴史の流れのなかで変容していく国家の良心。大戦によって個人も国家も傷を負ったなかで生まれた小さな共産主義国家。そして迎える冷戦。時代時代によって国家が抱える不安が、ときに抗し難い理不尽さで個人を翻弄します。昨日の常識が明日の非常識になってもおかしくない中にあって、人々はいかにアイデンティティを保っていくのか。民警の捜査官たちは何をよりどころにして捜査を進めていくのか。全5部のシリーズは現在までに2巻目まで刊行されていますが、そこでは個人と国家の関係が厳しく問われています。

ミステリと学問の自由

老検死官シリ先生がゆく (ヴィレッジブックス)

老検死官シリ先生がゆく (ヴィレッジブックス)

 『老検死官シリ先生がゆく』では共産主義政権下のラオスが舞台になっています。そこで探偵役を務めるのは老検死官のシリ先生です。共産主義という全体主義国家的な考え方が蔓延する中にあってシリ先生が真実を探求しようとするのは、検死官としての科学的思考が根本にあるからです。権力者が自己の都合の良いように真実を捻じ曲げようとしても、自然法則までも捻じ曲げることはできません。
 逆に言えば、真実の解明には学問や研究の自由といったものが必要だということになります。拷問の禁止といった生命・身体の自由とは別の意味で、ミステリにとって基本的人権の尊重は欠かせないものなのです。

ミステリと表現の自由

風の影 (上) (集英社文庫)

風の影 (上) (集英社文庫)

 表現の自由と、その表裏としての知る権利は民主主義の根幹に関わる重要な権利です。なぜなら、個人の人格の形成(個人の自己実現)と、民主主義の維持・運営(国民の自己統治)において必要不可欠な権利だからです。表現の自由の確保によって公開討論の場が確保されます。そして、真理への到達という「思想の自由市場」として機能することになります。ミステリにおいて問題となる真実もまた、そうした真理と同等のものとして考えることができるでしょう。
 『風の影』フランコ独裁政権下のスペインが舞台となっています。そこでは政府による検閲が行なわれ、市民の表現の自由と知る権利は著しく制限されています。そんな中にあって、真実があげる悲鳴の象徴として機能しているのが一冊の本『風の影』です。
 そもそも読書という行為そのものが表現の自由と知る権利なしには成立しないわけですが、そうした中にあっても、特にミステリでは、ジャンル的本質としてそうした自由や権利と緊密な関係にあるということはいえると思います。
※主な参考文献:『憲法』(佐藤幸治/青林書院)
憲法 (現代法律学講座 5)

憲法 (現代法律学講座 5)

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