読者は解説に何を望むのか?

ひとめあなたに… (創元SF文庫)

ひとめあなたに… (創元SF文庫)

 創元SF文庫から刊行された新井素子ひとめあなたに…』の巻末には東浩紀の解説が付いてるのですが、これがあまりにどうしようもなくて笑ってしまいました。何が書いてあるのかといえば、まずは解説者の自己紹介です。そして、新井素子の作品がどれだけ好きでどれだけ特別な存在なのかといったことにかなりの紙数が費やされます。で、そこからようやく現代思想とか情報社会論、さらには解説者お得意のセカイ系といった単語が出だして、さて何を論じるのかと思ったら、

ぼくはまさにいま、この文庫と同じ東京創元社から刊行されている小説誌『ミステリーズ!』で、その新しい新井さん理解を主題にして原稿を書いている。
(中略)
というわけで、ぼくはここでは、通常の意味での作品解題は行わないことにした(興味のあるかたは申し訳ないが上記の雑誌を探してみてほしい、それはそれで力を入れて書いている)。
(『ひとめあなたに…』p353〜354より)

  ∧_∧
⊂(#・ω・)
 /   ノ∪
 し―-J |l| |
         人ペシッ!!

 もうね、全然解説になってないのですよ。自分語りも自著の宣伝もいいですが、そういうのはぜひ自分のブログとかでお願いします。
 などといった不満を一通りぶちまけますと(笑)、果たして解説に求められている役割って何だろう? といった疑問がふと沸いてくるわけです。そんなわけで少し考えてみました。
 まずは知識面での補足・薀蓄ですね。これには、読解にあたり特殊な専門知識などを要する箇所についての説明といった内的な側面と、同作家の他の作品、あるいは同ジャンル内での他の作品との関係性といった外的な側面が考えられます。
 内的側面については、実際には専門知識が必要ならば作中でその説明がなされることでしょうから、実際には作家についての薀蓄が主だと思います。この場合には、作家論と作品論との関係が問題になってきますが、それも含めての解説でしょう。
 外的側面については、その作品との出会いが他の作品を読むキッカケにもなりますから結構大事だと思いますし、他の作品との関係性について間違ったことが書かれてますと、その作品のみならず他の作品についてまで間違った認識を抱いてしまうことになってしまいますからね。その意味で、例えば『春期限定いちごタルト事件』(米澤穂信創元推理文庫)の解説(極楽トンボ)は少々問題があります。

 まずなんといっても人が殺されない!!
 これ重要。ミステリというと一番先に思いつくのは殺人事件。そして警察の捜査をあざ笑うかのように第二第三の殺人事件が発生するのがお決まりのパターンです。もちろん人の生死に関わるゆえの緊張感がミステリの魅力の一つではあると思うんですが、とにかく殺伐としています。
 米澤作品はそういう殺伐さとは明確に距離を置いています。
 出てくる謎はごくごく日常の謎。そう、例えば「学校で○○ちゃんの上履きが隠されていた。いった誰が何のためにやったのか?」そういう種類の謎です。
(『春期限定いちごタルト事件』p249より)

 ……そりゃあ、確かにミステリの大半が殺人事件を題材としていることは間違いないです。が、ミステリの一分野としていわゆる「日常の謎」といわれるものがありまして、それは北村薫とか加納朋子とかの作品などで知られていますけど、『春期限定〜』の前にそうしたものが既に存在しているわけです。で、そうした作品をお家芸として多数出版しているのが他でもない東京創元社創元推理文庫なのです。米澤穂信にしたって、そうした作品の存在を前提にして『春期限定〜』を書いていることは、同作者の『愚者のエンドロール』(角川文庫)の107ページとかを読めば明らかなわけです。ですから、『春期限定〜』をそのラインで語るとすれば、本作はいわゆる『日常の謎』の系譜に連なる作品ですが、本作の特色としては、「小市民」を標榜する主人公が『日常の謎』から距離を置こうとしている点にあるでしょう、といった感じでなければ困ります。そうでなければ、作者も創元推理文庫の読者も浮かばれないじゃないですか(笑)。ということで、当然のことですが解説には正確な知識が求められるのです。
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 また、解説には読者が作品の余韻を楽しむという役割もあります。解説が冒頭ではなく巻末についているのもそのためです。したがいまして、解説に求められているのは解説者自身の「読み」の提示です。
 小説の読み方・感想は読者の数だけあるでしょう。なので、絶対的な正解のようなはありません。ですが、だからこそ、他者の「読み」と出会い、自らの「読み」と比較することで、その作品をさらに深く読むことができたり、あるいは新たな読み方に気付かされたりもします。もっとも、最近は本を買う買わないを決めるために、まず解説から読むという邪道な方も結構いらっしゃるみたいです(笑)。そうしたニーズに答えるために巻末にありながら未読の方を対象とした解説というのもかなり見かけます。そうした場合には未読の方の興味をそがない程度に「読み」を示して作品内へと誘導する役割を担っていることになりますが、いずれにしても解説者の「読み」が示されることが必要となります。
 上述したように、小説の読み方に絶対の正解などありはしません。しかし、そのことは解説者は好き勝手に読んだことを書いていいということにはなりません。なぜなら、間違っている「読み」というのはあると思うからです。例えば、『銀河英雄伝説7 怒濤篇』(田中芳樹/創元SF文庫)の解説(久美沙織)ではこんなことが書いてあります。

 ヤンもラインハルトも、戦争が「人殺し」であること、それも極悪非道な大量殺戮であることぐらい、じゅうじゅう承知している。どっちもけっして、それが「好き」な変態であるわけではない。ただ、やらないわけにはいかないからやる。他に任せられるひとがいないからやる。やるからには、全身全霊をかけてやる。他にどうしようもない場合、ひととして有限なものにできる限りの最良のことをしようと苦闘するのである。
(『銀河英雄伝説7』p339より)

 ちょっと待ってください(汗)。ヤンはともかくラインハルトは立派な戦闘狂でしょう。これまでにも戦いを回避できたはずの場面において、ラインハルトは常に戦争を選択して決断してきたじゃないですか。ヤンをして「炎の美しさ」と評されたラインハルトの性格を、この解説者は果たしてどのように理解しているのでしょうか。こうした解説に出会いますと不安で苦痛でたまりません。せっかくの余韻が台無しです。
 作品は解説なしでも作品として成立しています。しかしながら、解説はその基となる作品なしには成立し得ません。ですから、解説を書くときにはぜひその作品ときちんと正面から向き合ったものを書いてほしいと思います。作者と読者のためにも。

春期限定いちごタルト事件 (創元推理文庫)

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銀河英雄伝説〈7〉怒涛篇 (創元SF文庫)

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