『木曜日だった男』(G・K・チェスタトン/光文社古典新訳文庫)

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

木曜日だった男 一つの悪夢 (光文社古典新訳文庫)

 創元推理文庫から『木曜の男』(吉田健一・訳)のタイトルで刊行されてますが、本書はその新訳(南條竹則・訳)です。訳題が変わってますが、原題「The Man Who Was Thursday」にどちらが忠実かといえば新訳の方に分があると思うので、改題もやむなしでしょう。本分の訳自体も、当然のことながら新訳の方が読みやすいです。もっとも、そうでなくては困りますけどね(笑)。とはいえ、新訳と旧訳の読み比べなど普段の私なら面倒くさくてやらないのですが(コラコラ)、なぜそんな柄でもないことをしたかといえば、ここだけの話、『マンアライヴ』のトラウマがあったりなかったりするからです(苦笑)。というわけで読み比べてみましたが、訳文の違いこそあれ内容的にはほとんど一緒でした。これもまた当然と言えば当然のことですが。でも、(ヒヤ、ヒヤ)は(ヒヤ、ヒヤ)なんですね(笑)。原文にはいったい何て書いてあるのか気になります……*1
 チェスタトンといえば短編ミステリ「ブラウン神父」シリーズで知られていますが、本書をそうしたミステリだと思って手に取ると不意打ちを受ける恐れがあります。ってか、古典新訳シリーズのラインナップのなかで、本書が浮いて見えるのは私だけでしょうか。いや、傑作だと思っているので広く読まれるようになるのは大歓迎ですけどね。
 無政府主義者を標榜する詩人グレゴリーと法則や秩序に美を認める詩人サイムの論争。グレゴリーは主義主張を問わずあらゆる政府というものの存在を否定します。反対にサイムは政府と秩序を肯定します。二人の論争は平行線をたどったまま、グレゴリーはサイムを秘密の会議へと招待します。それは無政府主義中央評議会の七人のメンバーのうち空席となっている木曜日の代表を決める選挙の場でした。グレゴリーが木曜日に立候補して代表に決まるのかと思われたそのとき、サイムが異議を唱えて……というようなお話です。
 無政府主義者は具体的に敵対する政府というものを持ちません。ありとあらゆる政府と、そこから生まれる正義と不義とを憎みます。非常に観念的な反社会的活動です。一方で、それに反駁するサイムにしても、具体的に擁護する政府を持ちません。これまた観念的な社会活動です。観念と観念とがときにぶつかり合い、ときには惹かれ合って、あれよあれよと不思議な筋を辿っていきます。逆説と風刺で知られるチェスタトンの本領が発揮されている作品です。
 本書のオビには「刑事がテロリスト?」と書いてありますが、まさにそうしたストーリーです。観念に基づいた行動はいつの間にか守るべき主体・寄るべき立場の逆転現象を招きます。そうした逆転が論理の名の下に行われるからこその”逆説”ですが、今の世界を前提として考えると、本書の展開を空言として笑い飛ばすわけにはいきません。テロとの戦い。自由のための戦い。9・11以降お題目のように唱えられている大義ですが、これもまた極めて観念的なものです。幻想ピクニック譚は皮肉にも現代を的確に風刺してしまっています。そういう意味では、新訳として読まれるだけの価値のある作品だと思います。
木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

木曜の男 (創元推理文庫 101-6)

*1:コメント欄にてご教示いただいたのですが、「ヒヤ、ヒヤは、Hear,hear!で傾聴、傾聴!という意味」とのことです。言われてみれば納得でスッキリしました。感謝です。