ミステリやファンタジーにおける「全能感と無能感」

主人公は万能感と無能感どちらに溢れているべきか?(日々是良日な日記)[↑B]

正確に言うのならば、
「万能感溢れる主人公」と「無能感溢れる主人公」とのどちらが好まれるか?
という命題としたほうがいいのかもしれないのです。

 ネットの海をさまよっててちょっと面白いと思ったのでつらつらと。
 まずこのテーマについては、米澤穂信が自作と照らし合わせて面白いことを述べています。

 私が書くときに意識していたのは、「全能感と無能感」ということです。例えば「全能感」から「無能感」におちいる、あるいは「無能感」から「全能感」に引き戻ってくる。「手が届くと思ったんだけれども届きませんでした」とか、「見えると思ったんだけれども見えませんでした」みたいなことを書きたいと思っていました。この「揺らぎ」が成長の過程ではないかと思っていて、
(中略)
 探偵を書くときに完全な名探偵にしてしまうと、話づくりとしては面白くないし、それに青春の桎梏を絡めることができない。
(『小説トリッパー』2008年春季号所収、米澤穂信インタビュー「フェアな言葉の感触」p38〜39より)

 米澤作品にはいわゆる青春ミステリと呼ばれるものが多いですが、こうした観点から青春小説的な成長性が描かれているわけです。また、未成熟な主人公を探偵役とすることで、全知の存在になりがちな探偵役に人間性が付与されることにもつながっています。
 ミステリにおける探偵は、作中の謎に対する解答の絶対性を担保するためにとかく完全な人物になりがちです。すなわち、「全能感」を代表するキャラクタです。その相方に「無能感」の代表たるワトソン役を配置することで物語を作るのが基本的なパターンです。ところが、それだと探偵役がどうしても無個性になってしまいますし、また、クイズやパズルといったゲームとしてはともかく小説としての魅力にも乏しくなりがちです。そこで、探偵役にいろんな欠点を持たせて「変人」にしてみたり、あるいはハードボイルドのように孤独な探偵にしてみたり、さらには探偵に挫折を経験させて神の座から引き摺り下ろしたりと、実に様々な方法が模索されることでミステリは綿々と書き続けられてきているわけです。
 また、古典的なファンタジーだと、凄い力を持った魔法使いが自分の好きなように世界を変えようとして、それに未熟な若者が立ち向かうというのがテンプレとしてありますね。つまり、「全能感」対「無能感」の対決なわけですが、このテンプレだと「無能感」側が勝つのがお約束となっています。それはいったいなぜなのか? もちろん、正しい側が勝って悪い側が負けるという勧善懲悪的な側面があることには間違いありません。ただ、個人と世界の対立という観点から考えると、「全能感」を意識した者はその力ゆえに世界を変えようとするのですが、その時点で世界について知ることを放棄してしまうのですね。他方、「無能感」側は無能であるがゆえに世界を変えようなどという考えに及ぶべくもなくて、それゆえに世界を知ることを強いられます。すなわち「知恵と勇気」です。そして世界を知ることで世界が守られます。大人が安心して子どもに読ませることのできる保守的な物語。それが古典的ファンタジーのテンプレの本質じゃないかと思います。『DEATH NOTE』が圧倒的な大ヒットを記録したのも、こうしたお約束に敢然と立ち向かったからではないかと思ったり思わなかったりしました。

小説 TRIPPER (トリッパー) 2008年 3/25号 [雑誌]

小説 TRIPPER (トリッパー) 2008年 3/25号 [雑誌]