『狂犬は眠らない』(ジェイムズ・グレイディ/ハヤカワ文庫)

狂犬は眠らない (ハヤカワ・ミステリ文庫 ク 14-1)

狂犬は眠らない (ハヤカワ・ミステリ文庫 ク 14-1)

 『ミステリマガジン』2008年6月号のバカミス特集で、第1回世界バカミス☆アワードを受賞していたので気になって読んでみました。
 バカミスといってもこの場合のバカは「愚かな」という意味ではありません。まあ、バカミスの定義自体が不明瞭なものであることは特集内でも繰り返し述べられているのですが、「バカ正直」のバカのように、程度が過ぎること、みたいな理解でとりあえず間違ってはいないと思います。とはいえ、実際の作品をバカミス認定したときに、人によっては不快に思うこともきっとあるでしょう。そうした気持ちは分からなくもないですが、個人的にはこうした試みは大好きです。
 とかくミステリばかり読み続けてますと視野が狭くなりがちです。フェアプレイとか論理とかトリックなどを丹念に読み込もうとすれば、当たり前のことですが出来の良い作品・傑作ばかりを高く評価することになります。それはそれで大事なことではありますが、その一方で、どこか突き抜けてしまっている珍作・奇作・快作にもそれはそれで愛すべき味があります。それに、言い方は悪いかもしれませんが読者は物語を好き勝手読んでいいはずです。なので、求道的な気分で読みたいときもあればゲテモノが欲しくて読むときもあるわけです。読書ライフというのはそうやって豊かになっていくはずですしジャンル自体もそうやって栄えていくものでしょう。
 というわけで、そろそろ本題に入ることにします。本書はめでたく(?)第1回世界バカミス☆アワード受賞作に選ばれたわけですが、これをバカミスと呼ぶのであれば、バカとはずいぶん高尚なニュアンスが込められているのだなぁと思います。いや、決して本書がバカじゃないわけではないのですが……。
 スパイとして働きすぎて頭がいかれてしまった5人の元CIA所属のスパイ。彼らは秘密の精神病棟に隔離されていましたが、彼らの治療を担当していた精神科医が何者かによって殺されてしまいます。このままでは医師殺しの容疑をかけられてしまうことを危惧した5人は病院を脱走して自分たちの手で真相をあばき真犯人を突き止めることを決意します。
 狂った5人の元スパイによる逃走劇のサスペンス。主要人物が各様に狂っているという設定は筒井康隆『虚航船団』をほうふつとさせますが、それと同じく5人はそれぞれに違った狂い方をしています。ラッセルはある事情から音楽を口ずさまずにはいられません。ゼインはある事情から暑さにまったく耐えられなくなってしまっています。エリックはある事情から命令形の言葉を聞くとそれに従わずにはいられません。5人のなかで紅一点のヘイリーはある事情からいつも悲観的で鬱な物言いしかできなくなっています。そして、本書の主人公であるヴィクはある事情から時々フリーズしてしまいます。本書の語り手はヴィクです。狂人による語りということになりますが、ヴィクの症状はフリーズなので語り自体に狂気は影響しません。また、彼は夢と狂気と現実というものを意識的に区別しようとしています。それだけにむしろ信頼できる語り手として読者は安心して物語を読むことができます。
 彼らは確かに狂っていますが、その狂気には彼らがそれぞれに抱える過去に原因があります。いわばトラウマの発露としての狂気なのです。それはとても重いものです。優秀なスパイであったが故の悲劇。それは任務のために抑圧されてしまった感情の慟哭でしょうか。それとも歪められてしまった理性の悲鳴なのでしょうか。
 彼らは自分も仲間も狂っていることを知っていて、だからこそ、現実を現実として意識するために仲間の存在が必要不可欠です。また、弱みを補い合わなければならないため、互いに対して思いやりを持って接します。そんな彼らの織り成す会話はどこかずれてて、しかしながらとても温かいです。客観的に見れば絶体絶命な状況で、主観的には精神に異常をきたしていてクスリが切れたら正気を保てなくなるという、まさに絶望的な事態に直面している彼らではありますが、にもかかわらず物語は暗くなることなく軽快に進んでいきます。狂気と正気の狭間を音程のごとく上下しながら、物語はテンポよくメロディアスに流れていきます。本書は661ページというなかなかの厚さですが一度読み始めればそんなことはまったく気になりません。
 狂った元スパイたちが立ち向かう陰謀劇。狂人によって暴かれんとする陰謀の意図するところは何なのか。狂っているのは彼らだけなのか。そもそも、彼らが狂っているといったい誰が言えるものなのか。もしも世界が狂っているのであれば、狂人扱いされている彼らこそむしろ正気を保っているということになりはしないのか。なるほど、確かに”イカレているにも根性がいる”ものなのですね。
 9・11を経験することで変わらざるを得なかったアメリカにおける新しいスパイたちの物語としても本書はオススメです。
ミステリマガジン 2008年 06月号 [雑誌]

ミステリマガジン 2008年 06月号 [雑誌]