ファンタジーとピューリタニズムについて
●ピューリタニズムの天職観念と少年漫画の精神 - ピアノ・ファイア
それにしても、ピューリタン(清教徒)による宗教的教育の成果とされる「行動的禁欲主義」こそが「近代資本主義の精神」を生んだのだ……、というくだりにはとりあえず納得するとして、しかしその「非合理的」かつ、激しく強迫観念的な行動原理(エートス)が「日本の少年漫画における行動原理」と相通じるように感じられるのが、個人的には興味深い部分でした。
私もとても興味深く思ったので、ピューリタニズムとフィクションについて書いてある本を本棚から引っ張り出してみました。
- 作者: アーシュラ・K.ル=グウィン,Ursula K. Le Guin,山田和子
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2006/05/16
- メディア: 文庫
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『戦争と平和』や『指輪物語』を読むのは、明らかに”仕事”ではありません。たのしみのために読むのですよね。ところが、”教育的”であるとか”自己向上に役立つ”との大義名分がないかぎり、ピューリタン的価値観では、それは自己陶酔ないし逃避にすぎないとされてしまいます。ピューリタン式に言えば、たのしみは価値ではない、むしろ罪だからです。
同様に、ビジネスマンの価値観からすると、即座に有形の利益をもたらす行為でないかぎり正当なものとは認められません。(中略)もっとも、ビジネスマン諸氏もときにはベストセラーくらいは読む気になるかもしれない。ですがそれは、良い本だから、ではなくて、ベストセラーだから――成功して、お金のもうかっている作品だからです。マネーチェンジャー氏の不可解な心には、こんなことが作品の存在意義ともなるらしいのです。それを読んで、自分もちょっぴり成功の力と秘密を味わったような気になる。これぞ魔法でなくてなんだろう、とわたしなどは思うのですが。
(『夜の言葉』p84〜85より)
よく、「小説やマンガなんて何の役にも立たないのに何故そんなの読んでるの?」という質問がされることがありますが、そういうのが気になる方は根っからのピューリタン気質の方なのかもしれませんね。ただ、自己陶酔にしろ逃避にしろ、そういうのも広い意味では役に立ってるわけですが(笑)。
こんなことを申し上げて、性差別論者だなどと思われないとよいのですが、わがアメリカ文化においては、この反フィクション的な態度は基本的に男性のものだ、と思うのです。アメリカ人男性は大人も子どもも、通常、われわれの文化が”女性的””子どもっぽい”と規定するある種の特質、天賦の能力、潜在的可能性を拒絶することにより自らの男らしさを定義すべく強いられています。そうして、おそるべきことに、想像力という、人間にとって絶対不可欠な能力も、この排斥さるべき可能性ないし特質のひとつに入っているのです。
(『夜の言葉』p85〜86より)
このエッセイはあくまでもアメリカを対象としたものではあるのですが、しかしながら日本においても確かにある程度共通することがいえると思います。不思議ですね。
話がそれますが、マンガの表現、特に性表現について少年マンガは規制(自己規制含む)が厳しい反面、対する少女マンガでは過激な性表現がされているというのが話題になることがあります。
●http://www.heiwaboke.com/2007/04/post_822.html
少年マンガと少女マンガとでこうした表現規制に差が生じている背景として、ひとつには上述のようなフィクションを否定することによる男性性の創出という側面はあるんじゃないかなぁ思います。また少年マンガ誌(ってか週刊少年ジャンプ)の「友情」「努力」「勝利」というテンプレが発達したのも、やはりこうしたピューリタニズムに忠実な物語作成方法として機能したからではないかと考えられます。
ただ、少年マンガよりも少女マンガの方が性表現が自由なのは、やっぱり根本的に女性の方が危険な世の中だからでしょう。男性が性犯罪の被害者になることだってありますが、しかしながら現実問題としては女性の方が危険を多く抱えているわけで、そしたらそっち方面での危険に対する想像力が敏感に働くのは当然のことでしょう。
想像力とは芸術はもとより科学にとっても必要なものです。それを抑えつけるのか、それとも育むのか。情報過多な時代なだけに難しい問題ではありますが、準・児童ポルノ規制なるものが一部で主張されている昨今、あまり規制が厳しくなる方向に進んで欲しくはないですね。