批評家の視点、一般人の視点。

「アラ探しより“面白い探し”のほうがいいじゃん」
マーティ・フリードマン氏(元メガデス・ギタリスト)インタビュー【後編】
 昨日に引き続きマーティ・フリードマン氏のインタビューから。

マーティ: あえてはずしたわけじゃないけど、僕のランキングは、音楽ライターの意見とは異なるんです。日本の音楽ライターについては分からないけど、僕、アメリカの音楽ライターの意見は大嫌いなんです。
 この本では、僕は完全に一般の人の耳で聴いている。僕の好きな曲も、全部一般の人が聞く曲だから、だから、専門家の批評とは意見が違う。
 音楽雑誌のライターの意見は、基本的に、実際に音楽を買うファンとはちょっとちがうでしょう。「みんな浜崎(あゆみ)が好き」というのは、いいものの証拠じゃん。でもたいていの批評家は、トレンディーで格好をつけて、もっとマイナーなものを「いい」と言う。僕は完全に一般の人の聴き方で楽しんでるから。
 それに、アメリカの音楽ライターは、ミュージシャンになりたかった人が多いと思います。日本の状況は分からないけど、洋楽シーンでは、そういう人ってかなり苦い人、ビターな人になります。

 インタビューにおいて、マーティは音楽を「一般の人の耳で聴いている」ことを強調しています。
 自身を振り返ってみると、確かに、音楽にしても、食べ物にしても、本にしても、「オススメ」をする場合ちょっとマイナーなものを選んでしまいがちになります。
 まあマイナーなものを薦めること自体は悪いことではないと思いますが、ときに「ビターな意見」というのは一般の人の感想とかけ離れてしまうことがあるかと思います。
 森博嗣も、ブログ「MORI LOG ACADEMY」で以下のように述べています。*1

 たとえば、読書もそうだ。ミステリィなどでトリックや作者のやり方に慣れてくること、それは上達すること、悟りを開くこととは反対である。研ぎ澄まされたのではなく、「鈍く」なっただけのことだ。いつも無心で素直に接することが大切で、それには、常に自分の刃を磨いて、常に自分をリセットする必要があるだろう。諺でいえば「初心忘るべからず」だ。

無心についてMORI LOG ACADEMY
 目や耳や舌が肥えると、ともすれば「アラ探し」になりがちな「批評家としての視点」になってしまうこともあります。対象に初めて触れる、「一般人としての目や耳、舌」を大事にしたいなあ、と改めて自戒しました。

*1:θは遊んでくれたよ』解説の清涼院流水もこの記事を引用していましたね