日本には書評文化が根づいていないのか

 『論座』なんて買ったの初めてですが、それというのも特集〈「理想の書評」を求めて〉という謳い文句が目にとまったからです。この特集、「日本には書評文化が根づかないのはといわれるのはなぜか?」というところから始まって、そこから英米仏独の書評事情を探っていくという内容になっています*1
 まずは前提として『論座』は朝日新聞社発行の雑誌なので、新聞が話題の中心になっているということをご理解ください。その上で、日本で書評文化が根づかない理由として挙げられているのは以下の3つです。

1.(新聞では)十分なスペースがない。
2.「議論」または「論争」の伝統の欠如。
3.「散文」(エッセー)の伝統の欠如。

 ま、「日本で」となると納得いかないところも多々ありますが(笑)、あくまで新聞を前提としたものと考えればそういうものかとも思います。それよりも面白いのは、各国の書評事情を述べる上で挙げられる様々な書評についての考え方です。

 英国の書評は、評者がきっぱりと自分の偏見を開示する。著者の偏見に対する敵対宣言のような非難か、愛情表現のような称賛か、いずれにしても主観のこめられた文章は精彩を放つ。評者が自身の偏見を自覚して、それを著者の偏見にぶつけるからこそ、批判された側の著者から「公平」と感じられるのだ。
(本誌所収[イギリス書評事情]書評は「偏見」を見比べる機会(中村研一)p36より)

 ジャーナリズムの本質が新たな事実と視点を提供することにあるとすれば、優れた書評もまたニュースでありコラムであるということなのだろう。
(本誌所収[アメリカ書評事情]書評はニュースでありコラムである(三浦俊章)p42より)

 まず書評の書き方として、日本の書評でたまにみられるように、本の内容紹介と評価の部分が分かれておらず、この二つが渾然一体となっていることが多い。従って、評者がその本をどのように読んだのか、それを受けてどのように評価するのかも問われることになり、本の著者ばかりでなく、評者も評価の対象にならざるをえなくなってくる。
(本誌所収[ドイツ書評事情]書評は熱気と広がりのある論争に火をつける(高橋進)p48〜49より)

 書評の機能は、討議による公論形成にある。
(本誌所収[フランス書評事情]書評空間は複雑に入り組む知の闘技場(三浦信孝)p56より)

 いやはや。書評という言葉の定義の難しさは重々承知の上ですが、それにしてもこれだけ様々な考え方がありますと、国ごとにいろんな事情があるんだなぁとむしろ楽しくなってきますが、でもちょっとだけ困るのも確かです。
 とはいえ、これらの議論は冒頭でも述べたように新聞紙上という前提があってのものです。確かに新聞紙上では根づいてないかもしれませんが、当サイトを始めネット上のサイト・ブログではたくさんの書評が書かれています。「根づいてる・根づいてない」の判断に客観的な基準があるはずもないですが、でも検索サイトで「好きな書名 書評」ワードで検索してみれば、それこそたくさんのページがHITします。ネットには紙数制限はありません。日本人の議論下手は学生の頃など教授たちから散々聞かされてはきましたが、ことネット上ではいつもどこかで議論がされています。炎上だって日常茶飯事です(笑)。それに、「散文」(エッセー)だって十分広まっています(参考:日本語のブログ投稿数は世界第1位の37%--2006年第4四半期調査(CNET Japan))。ですから、新聞はともかく「日本で」ということになると、書評文化はかなり根づいてると思います。根づいてないと思っちゃうのは、きっとみんなの心の中に読書感想文のトラウマがあるからじゃないでしょうか(笑)。



 ということで話を終わろうかと思ったのですが、はてな村をさまよってたらこんな記事連を発見。
明らかに「ラノベのみ」っていう感想ブログ、少ないよね? - ブログというか倉庫
「ライトノベルがメインコンテンツ」な感想ブログを集めてみました - 平和の温故知新@はてな
 「書評」や「感想」といったカテゴリ分けが個々のサイトの本質に関係があるとは思ってません。例えば私が日参しているとあるミステリ&SFの書評サイトは「感想」と銘打ってありますが、そこではどのサイト・ブログよりもトリックなどについて詳細な検討がされています。そういう稚気*2は個人的にとても好きです(笑)。ですから、「書評」であろうが「感想」であろうが個々のサイトを対象に考えるときには別にどっちでもよいです*3。ただ、一般に広く本のサイト・ブログを話題とする場合に「書評」ではなく「感想」という言葉を使うのには違和感を覚えます。
 そもそも書評とは何でしょう。私の考えですが、それはある本についての感想であり批評であり紹介といった様々な側面を持った表現行為だと思います。そして、それらの各側面は決して切り離すことができません。純然たる紹介のみを行おうとしても「面白い」と書いてしまったら、それは紛れもなく感想でしょう。そして、「面白い」というのはあくまで個人的な感想だと思われる方もいるかもしれませんが、いくら個人的なものであっても「面白い」や「つまらない」は評価以外のなにものでもないでしょう。それらの言葉をサイトで表現している以上、それはすでに外部との関係が生じてしまっているのです。
 したがいまして、私の感覚では、本について何か語っている場合にはとりあえず「書評」としておくのが安全というか無難で、「感想」としちゃう方がむしろチャレンジャーだと思います。にもかかわらず、何故「感想」なのかを考えると、おそらく本についての言及について、批評的な側面を排除もしくは否定したいという力学が働いているものと推測されます。それって、やっぱり議論するのが嫌ということなのでしょうか。ひょっとしたら「書評」という言葉に何となく高尚なニュアンスを感じ取ってしまっているのかもしれませんが、『論座』の中でも少し触れられていますがそれは違うと思います。
 そういう目で改めてサイト(ブログ)を見直すと「書評」より「感想」の方が多いのかもしれません。実際、検索しても短文の「感想」が多いですしね。すくなくともラノベサイト界隈では「感想」が主流のようです。だとしたら、最初の問題提起に戻っちゃいますが、書評文化は日本に根づいていないといえるのかもしれませんね。

*1:思ったよりも短い内容だったので買ったのを後悔したりしなかったりです(笑)。

*2:穿ちすぎかもしれませんが。

*3:そもそも私は感想と書評の関係をそんなに割り切って考えてませんので。