データベースは考えない

 米澤穂信古典部シリーズに登場する福部里志は、自らデータベースを自認し、「データベースは結論を出せない」を口癖としています。
 これは具体的にどういうことなのか、ということをつらつらと考えてみました。
データベースと言って真っ先に思い浮かぶのはwikipediaです。知りたい言葉を入力し、検索すれば、一瞬の内に情報を入手できます。googleも巨大なデータベースといって過言ではないでしょう。疑問を入力すると、これまた一瞬で回答が出ます。
なんだ、データベースだって回答できるじゃん、と思った方。半分正解です。
 例えば「南アフリカの首都はどこだ?」という疑問の場合、データベースは答えを出すことが出来ます。「データベースが結論を出している」のです。一方で「なぜ密室に死体があるのか」といった謎が発生した場合、データベースは推理小説などから類似の状況を引き出すことは出来ても、解を導き出すことは出来ません。
 整理しますと、「解答に知識を要する疑問」と「解答に思考を要する疑問」の2種類があり、データベースは前者の疑問にのみ「結論が出せる」、ということです。(だからこそ福部は純粋に「知識」が問われるクイズが得意なのです)
例えば「『たほいや』ってどういう意味?」という疑問があった場合、もしその意味を知っているならば「データベース」は解答が出せます。一方で、理由を知らなくても(=知識がなくても)、思考(推論)によって解答を出すことも出来るでしょう。「解答を出す」というアウトプットは同じですが、一方では持っている知識から解を引き出し、一方では推論によって解を導き出します。つまり、「検索」ではなく「推理」によって解答しているのです。
 翻って、「疑問」に突き当たったとき、私たちはどういう行動をとるでしょうか。思うに、大きく分けて3つのパターンがあると思います。
(1)思考(推論)によって答えを推理する。
(2)自身の知識(データベース)から引っ張り出す。
(3)外部の知識から解答を検索する。
 今のご時世、(3)でほとんどの疑問が解決できます。素早く、しかも楽に解が出るのでこの手法に頼りっきりになってしまう可能性もあります。それが完全に悪いとは言いませんが、推理小説の中ならずとも、(1)を用いる機会は結構あるかと思います(現にこの考察記事だってそうです)。その際に「思考する」ことに慣れていないと、「思考して解を導き出す」という発想すら思い浮かばないことだってあるかもしれません。疑問に対して思考し、答えを導き出すという手法は、解答に対して時に回り道になるかもしれませんが、必要なプロセスなんじゃないかな、と思ってます。
 逆に考えると、福部の「データベースは結論を出さない」という発言は、(2)によって解答を出す、自身が持つデータベースへの矜持と、(1)の手法では主人公・折木奉太郎には決して敵わないという劣等感がない交ぜになっているのではないかな、と思います。
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 余談ですが、先日のアイヨシの記事で「高速道路論」について語っていましたが、まさしく今回の内容に合致しているかと思います。将棋で例えるならば、最善の一手を指すためにデータベース(過去の棋譜)を「検索」し、答えを導き出す。ここまでが羽生氏の言う「高速道路」であり、インフラの発展により「誰でも」導き出せるようになったというのが現在の状況。
 しかしながら棋士に本当に求められる部分は新たな一手を「創造」することであり、ここが「高速道路の先の渋滞」にあたるのかと思います。
【参考記事】三軒茶屋 別館 「文芸版「高速道路論」」