西尾維新『戯言シリーズ』と谷川流『学校を出よう!シリーズ』を対比させてメタについて考察してみました。
で、ここからが本題。
先ほどの話でメタについて語ってみましたが、いわゆる「メタ小説」以外でフジモリがオススメする小説は、西尾維新の戯言シリーズ(特に『ネコソギラジカル』)と、谷川流の学校を出ようシリーズ(特に『学校を出よう!5』および『学校を出よう!6』)です。
クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)
- 作者: 西尾維新,take
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学校を出よう!―Escape from The School (電撃文庫)
- 作者: 谷川流,蒼魚真青
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(以下、両作品について若干のネタバレを含みながらメタについて語ります)
戯言シリーズでは、西東天という、「物語の結末を見たい」という野望を持つラスボスが登場します。ここでいう「物語」とは「わたしたちの存在するセカイ(=作中のセカイ)」のことです。西東天は、物語(わたしたちのセカイ)を俯瞰する「メタ」な存在に立ちたいと考え、様々な画策をします。しかしながらその立ち位置はあくまで「わたしたちの存在するセカイに存在しながら、セカイそのものを俯瞰する」という考えです。3次元の我々が3次元に居ながらも3次元の物体(立体)を一度に全て見たいと願う、といえばわかるでしょうか。西東天は自身の居る位相から高次に上がれないと認識した上で、それでも自身の位相を俯瞰したい、高次に上がりたいと渇望しているのです。
登場人物よりも高位の位相が存在しない世界だからこそ、高次に上がりたいけど上がることができないという西東天のジレンマが強く読者に印象付けられます。メタという視点を書きながらもメタそのものを書かない。だからこそ、逆説的に、そして効果的に「メタ」を描くことが出来ているのだと思います。
一方、谷川流の『学校を出よう!』は戯言シリーズとは真逆の位置に存在します。
登場人物の一人である宮野秀策は、その能力から自身のいる世界の上位に世界が存在することを知り、より高次の位相に上ることを望みます。ここまでは戯言シリーズの西東天と一緒ですが、『学校を出よう!』の世界では「高次の世界」が存在しています。とはいうもののあくまで物語内部の世界であり、登場人物の世界を(X=0、Y=0)とし、わたしたち「読み手」の世界を(X=0,Y=1)としたときに、「物語の中の世界でありながら登場人物より高次に存在する世界」、すなわち(X=0,Y=0.5)を描いている、ということです。
実際、作中では、もとは人間でありながらも物語を俯瞰したり物語に関与できる「インターセプタ」や、「物語そのもの」を「書き直す」ことが出来る「アスタリスク」などの存在が登場します。宮野秀策が自身の世界より高次の世界に「気づき」、それを高次の存在が阻止しようとするやりとりは、このシリーズのひとつのクライマックスだと勝手に考えています。
『学校を出よう!』は「メタ」という構造そのものを物語に組み込み、読者に「メタ」について考えさせる非常によく練りこまれた小説だと思いますし、この考え方が一部『涼宮ハルヒ』シリーズに継承されていると思います。興味ある方は是非。