書評サイトの憂鬱(見出しについて)

 『ハチワン』と『ヒカルの碁』を比較してみるを、溢ニュースさんに紹介していただきました。どうもありがとうございます。
 『ロクメンダイス』(中村九郎/富士見ミステリー文庫)を、てけとーさんに紹介していただきました。どうもありがとうございます。しかも、てけとーさんには、ロクメンダイス、現在出版社品切れ中という適切な見出しで紹介していただきました。この記事、長々といろんなことを書いてますが、とりあえず主張したいのはまさに見出しで要約していただいたとおりのことですので、皮肉とか嫌味とか一切なしに純粋にとても嬉しいです。
(以下、蛇足の長文。もっと短くしたいんですが……)
 だったら最初からそういう見出しにしとけばいいんじゃね? と言われればまったくそのとおりなのですが、書評サイトとして、それはできないというかやりにくい事情があるのです。議論の前提として、ここは一応書評がメインのサイトです。もっとも、他にも将棋やら法律やら競馬やらゲームやらについても好き勝手書いてますし、アクセス的にはそれらのネタの方がむしろ好調なので客観的にはどうか分かりませんが、主観的には書評サイトのつもりです。で、書評サイトというのは基本的には一冊の本についての考察とか感想とかネタばれとかそういうのを書くわけですが、このとき見出しはブログか否かを問わず、書名・著者名(順不同)が主流でしょう。このこと自体別に悪いことではありません。まず、ほとんどの場合は文章の内容を端的に表してて、見出しとして嘘偽りのない的確なものとして機能しているはずです。また、検索エンジンからのお客様が読みたい本の書評を探す場合において検索ワードとして選ぶのはやはり書名と著者名が第一でしょうから、そうした点からも理にかなってるはずです。こちら側の都合としても、データ整理の観点から書名・著者名での統一というのは自分メモという意味でも便利です。ですから、ほとんどの場合は書名・著者名という見出しで問題はありませんし、それがスタイルとして確立してしまえば、他のちょっとはみ出た書評とかの場合でもスタイルとしての統一性を優先して書名・著者名という見出しになるわけです。実際、多くの書評サイトでこうした見出しが採用されてるはずです。
 ところが、こうした見出しは他者に紹介(=リンク)してもらおうと考える場合、特にニュースサイトさんに紹介してもらおうするときには、はなはだ都合が悪いです。書名・著者名などという没個性な見出しはいくらでもありますから、ニュースサイトさんとしてはそのままでは紹介しづらいでしょうし、そもそもネタ探しの段階において相手にされないでしょう。紹介されることはあくまで従で書きたいことを書くのが主なのは確かですしここを逆転させては絶対にダメですが、せっかく書いてるのですからそれを少しでも広く読まれるようにすることは別に悪いことでもないでしょう。ですから、そうしたありきたりな見出しでなくて、もっとフレキシブルな見出しをつけても良いと思うのです。しかし、それには抵抗を覚えるのが正直な気持ちです。一つには、上述したような書評サイトとしてのスタイルの統一性といった形式的な理由があります。実質的な理由として、上手く言葉にできないのですが、書名・著者名という見出しだと、客観的に書いてるような気がするんですよね。書評という言葉の定義自体あいまいですしそうでない感想だって別に構わなくて、要は読み物として面白いものであることが大事だと思うのです。ただ、本について何か書こうとするときに、まず先入観なしにその本と向き合うことが大事なのでそこは意識してて(もちろん、この著者・このレーベルならこういうジャンルだろうな、という期待とかはありますが)、その本を読んで思ったこととか考えたこととかはあくまで結果であって、でもそれは人それぞれでしょう。だから、書評にしても感想にしてもその起点は当然ながら本なわけで、そうした気持ちが書名・著者名というシンプルな見出しに表れるんじゃないかと思います。もちろん、毎回毎回工夫した見出し(あるいは見出しとして表現するに足る書評内容)を考えるのは大変だというのはあります。それが一番大きい理由かもしれません。
 ”『ハチワン』と『ヒカルの碁』を比較してみる”のように、複数の本を考察対象にしてる場合はフレキシブルな見出しを付け易いです。それなりの理由があってのことなのでそれを見出しで表現すればよいだけですし、また、単に書名を並べるだけだと意味が分かりませんからね。それに、そうした複数本の考察というのは例外的なものですし。一方、今回の『ロクメンダイス、』のような場合は困るのです。『ロクメンダイス、』が現在出版社品切れ在庫なし状態だから復刊ドットコムにリクエスト投票してみませんか? というのが記事の主題ではあります。しかしその後に、ホントに無駄にダラダラと長文を書いてます。ただ、書評サイトとしてのアイデンティティ的には、主題との比較では駄文であっても無視するわけにはいきません。他に適当なカテゴリもありませんし、うちの場合だと結局、プチ書評というタグでカテゴライズして普段どおりの見出しにしたわけですが、今でも迷いがないわけではありません。記事を二分割しようかしら? それも変ですよね。
 似たような迷いは昨日の記事、『名人』(川端康成/新潮文庫)でもありました。この書評、内容というか流れからすれば例えば、”名人という言葉の特別さ”とかの方が適切でしょうし、一か八かを狙うなら、”川端康成と時系列シャッフル”とでもすべきでしょう。後者は邪道な見出しだと思いますが(笑)、あまり読まれていない良書を紹介する場合には良心が痛むことはありません。とにもかくにもまずは興味を持って欲しいと思うので。ただ、こうした見出し案も、書評サイトとしてのアイデンティティ・自分縛りがそれを許可しないのです。いや、今のはあくまで一例でして両者ともベストだとは思ってません。しかし、少なくとも”『名人』(川端康成新潮文庫)”よりましなことは間違いないでしょう。ただ、そうしたことを頻繁にやっちゃうと、だんだん書評サイトじゃなくなってってしまうような気もします。だからと言って没個性な見出しのままだと話題性に乏しいのも確かです。面白いものさえ書いてれば紹介したいと思う側でそれに見合った見出しに改変してくれるはずだ、という主義もありだとは思いますが、その期待は一方的なものに過ぎないという自覚は持つべきでしょう。また、ニュースサイトさんとかの中には見出しを変えることに抵抗を感じる人もいらっしゃるかもしれません。私としては紹介してもらえるのであればどんな見出しにされようが問題ないと思ってます。上述のように書評の場合は没個性な見出しなので、そのままで紹介しようとするとかえって無理が出てくると考えられます。この無理を強いるという意味で、そもそも基本的にはこちら側の怠慢じゃないかとも思うのです。でも、日々淡々とある程度のペースで書いてこうと思うと、どうしてもシンプルな見出しの方に落ち着いちゃいますね。
 私のような引きこもりの出不精でも、たま〜〜〜〜にオフとかで他の書評・感想系の中の人とかの話を聞く機会があったりするのですが、書評・感想系のサイト・ブログはアクセスが伸びないという話は聞きます。どれくらいあればアクセスが多くてどれくらいなら少ないとかは判断しかねますし、そこにどれだけの価値を見出すのかも人それぞれでしょう。ただ、やっぱりある程度のアクセスが欲しいと思うのは人情ではないでしょうか? もし、この記事をご覧になってて、これから書評・感想系のブログ・サイトを始めてみようと思われている方がいらっしゃいましたら、見出しについて工夫を考えてみるのも一つの手だと思います。ある程度記事がたまっちゃうと自縄自縛状態になってしまうので、やるなら最初からの方が良いでしょう。書評・感想系のブログ・サイトはたくさんありますから、その中で個性を打ち出す方法の一つとして、これはこれでありではないかと思ってます。もっとも、私自身は実践する気は今のところないのですが、それだと見出しについての憂鬱はこれからもついて回ることになるわけです。ま、こうしたことを考えること自体が、また面白さの一つでもあるのですけどね(苦笑)。