『失踪症候群』(貫井徳郎/双葉文庫)

 昔は、顔・面通しによって個人を同定していました。ですから、ミステリにおいて首切り死体(参考:『生首ミステリ』)や怪しい覆面をかぶった男とかが登場したら、まず人物の入れ替えを疑うのがミステリ読者としてのセオリーとされてきました。ところが、科学捜査の発達した現代において、首を切ろうが焼こうが潰そうが、指紋・歯型はもとよりDNA鑑定でその身元は一発で特定されてしまいます。ですから、個人の同定を防ぐ場合にそんなことをしても何の意味もありません。
 一方で、わが国における個人対国家の関係において個人を同定するものとして重要なのが戸籍制度です。いくら人として生物学的に存在していても、戸籍に名前がなければ国家との関係では存在しないも同じです。そこで、現代ミステリにおいて戸籍制度は入れ替えトリックを生み出すための格好の材料として用いられています。有名どころでは宮部みゆき『火車(書評)』がそうですし、また愛川晶の『化身』なども評価の高いところです。きっと他にもあると思います(←蝶適当)。
 本書『失踪症候群』でも、戸籍制度を利用した入れ替わりトリックが用いられています。…あれ? あっさりネタバレか? しかし、作品の中において入れ替えトリックが占めているウエイトというのはそれほどでもないので許して下さい。そうした入れ替えが失踪のために使われているというのが重要で、それがまだ人生経験を積んでいないはずの若者の失踪のために利用され、ひいては現代の若者が抱える自我の不安定さという問題のメタファになっている、なんてまとめるとちょっと書評っぽくないですか?(笑)
 まあ、作品内で並列して起きている事情が、複数の失踪事件の捜査をキッカケにつながっていきながらその真相が次々と明らかになり最後には大事件の解決につながる、というわらしべ長者的な面白さが本書の読みどころで、そういう意味では佳品だと思います。
 三部作の一作目にあたる本書ですが、どうしても導入部的な役割は否定できません。奥深さでは二作目の方が上だと思いますし、三作目である『失踪症候群』はぶっちぎりの出来だと思います。シリーズものではありますが、ストーリー的なつながりは希薄ですので、本書を読んだことを他の2冊を読む理由とするのは大歓迎ですが、読まない理由にするのは絶対にやめて欲しいです。『殺人症候群』はそれだけの傑作だと思いますので。
 ちなみに、これだけネタにされ続けている戸籍制度ですが、やっぱり問題はあります。
戸籍:2歳女児が未登録…親の離婚絡み法の壁毎日新聞
 とりあえずこの子の母親は何を考えているのか? と思わずにはいられませんが、それはさておき子供の福祉のために何とかするしかないでしょうね。法の原則を曲げるわけにはいきませんが、リンク先にもある通り現行法(判例)での適切な解決も可能なはずなので、面倒は承知で家裁に持ち込むより外ないと思います。

失踪症候群 (双葉文庫)

失踪症候群 (双葉文庫)