『僕と『彼女』の首なし死体』(白石かおる/角川文庫)

 東京の朝。誰もが夜とは違った顔になり、互いに正体を知らせず、それでいて押し合いへしあいして行き来する。
 誰がだれなのかわからない。
 だから僕はわざわざ、こんなことをしなければならなくなった。
(本書プロローグp5〜6より)

 第29回横溝正史ミステリ大賞「優秀賞」受賞作品です。
 巻末の宇田川拓也の解説にて、第29回の選考委員の一人であった坂東真砂子の次のような評価が紹介されています。

「最終候補作品中、最も不快感を覚えた小説だった。(略)
 真っ先にいえるのは、主人公「ぼく」の性格や心理があまりにも嫌味で、好きになれないということ。その理由は、「ぼく」の存在が、常に事象の上にあり、他者を見下しているようなところにある。(略)何の説得力もないままに「ぼく」はすべてを超越し、何事にも冷静で、淡々としていられる人物として描かれている。作者の自意識過剰が、主人公に投影された結果ではないかと思う」
(本書解説p336より)

 本書のプロローグにおいて、主人公である「僕」こと白石かおるがとっている行動。それは、女性の生首を渋谷のハチ公像前に置いてくる、というものです。なので、「何ゆえ主人公はそうした行動をとったのか?」というのが謎解きミステリとしての本書における最も大きな興味であることは自明なのですが、そこにいかなる動機が隠されているにせよ、そうした主人公の性格がおよそ真っ当なものでないこともまた明らかであるといえるでしょう。
 そうした秘密を抱えている主人公による「僕」という語りは、いわば「信頼できない語り手」によるものといえますが、そうした事情を抱えている以上、本書における主人公の役割というものも、語り手という役割のみならず犯人としての役割をも担っている以上、当然、観察や洞察の対象とならざるを得ません。なので、坂東評における「他者を見下している」という評価は片手落ちで、他者どころか「僕」という自己をも見下しているというのが妥当な評価でしょう。そして、それはミステリというひとつの知的ゲームを楽しむ上での自然な読み方であるとも思います。実際、主人公の肝心要な本音の部分が分からないままに完全に感情移入し切って物語を読み進めていく読者というのもそうそういないと思うのです。もしも感情移入をして読むとすれば、それは再読時以降でしょう。
 主人公である白石かおるは総合商社に勤める若きエリートサラリーマンです。合理的な思考と大胆な行動力によってトラブルを解決していく独特のキャラクタによって、社内でも一目置かれている存在です。合理的思考は、ときに常識的思考とかけ離れた結論を導き出すことがあります。冒頭において生首をハチ公像前に置くという行動は、常識的思考との関係において、そうした合理的思考の陰の側面が現れているのに対し、商社におけるエピソードは、そうした合理的思考の陽の側面が現れたものであるといえます。常軌を逸した行為が狂気の末であるならば、合理的に狂気を描いた作品が本書です。でもそれは、決して理解不可能なものではないことも確かです。合理的思考の果てに自身が導き出した結論に対し、普通は常識との折り合いをつけることで最終的な判断を下すのが「大人の考え方」でしょうが、白石かおるをそういうことをしません。そこを「超越」と捉えればそういうことになるでしょうが、「未熟」と捉えることもできるでしょう。
 でもって、何ゆえ「僕」はハチ公像前に生首を置いたのか?という問題について、その動機は二転三転するのですが、最初の方が成立するのは、「僕」の側もさることながら社会の側も何気に可笑しいよね?というのは指摘しておきたいです。何だかんだでオススメです。