『PSYCHE』(唐辺葉介/星海社文庫)

PSYCHE (星海社文庫)

PSYCHE (星海社文庫)

ギリシャ語で、『魂』と『蝶』はおなじことばで」と言う。「『プシュケ』。どっちの意味も表わすんだったわね」
『マッドアップル』(クリスティーナ・メルドラム/創元推理文庫)p26より

 『PSYCHE』というタイトルを見て、第一感として「サイケ(サイケデリック - Wikipedia)」を思い浮かべましたが、表紙カバーに「プシュケ」というルビが振ってあったので、思わず苦笑いしてしまったり。とはいえ、いざ読んでみると「サイケ」と読んでもあながち的外れとはいえない読後感なのも確かで、「サイケ」でもあり「プシュケ」なお話であるといえます。
 「プシュケ」という言葉が持つ『魂』と『蝶』という二つの意味。そして、胡蝶の夢胡蝶の夢 - Wikipedia)の説話のように『蝶』と『夢』とが結び付けられていきます。飛行機事故によって家族を失ってしまった「僕」。そんな僕には、死んでしまったはずの家族の姿が見えています。そんな家族と、従姉妹の少女・アイと暮らしながら、僕はキャンバスに向かって絵を描きます。『気持ち』や『感じ』を描き残すために。ですが、そんな「僕」の心が、いつしか夢と現実の狭間へと迷い込んでいることに気付きます。
 『転々私小説論』(多田道太郎講談社文芸文庫)という私小説について述べられている評論集があるのですが、その中に次のような一説があります。

 今日読んで「私小説」に関して一番きちんといっているのは、大正十四年十月号の「新潮」に宇野浩二が書いた「『私小説私見」です。このときは「私(し)小説」とはいわずに「私(わたくし)小説」といっていたと思います。私が書く、あるいはしゃべる、そういうものが「私(わたくし)小説」だったわけで、「私(し)小説」というと、「自分が」というものがどことなく消えてしまう。今の人は気ぜわしくなっているから、「私(わたくし)小説」とはいわないで、「私(し)小説」という人が戦後急に多くなったのですが、もともとは「私(わたくし)小説」といっていたと思います。
『転々私小説論』p65より

 本書は、佐方直之という少年からの「僕」という一人称による語りが用いられています。一人称による語りは、「僕」という視点人物から見た世界、ともすれば妄想を語るのに適した視点描写ではありますが、そうした描写が続いていくうちに、「僕」という存在は、静かに、しかしながら確実に、儚くて危いものへとなっていきます。自覚があっても陥らざるを得ない虚へのスパイラル。本書はそんなお話です。オススメです。

転々私小説論 (講談社文芸文庫)

転々私小説論 (講談社文芸文庫)