『謝罪代行社』(ゾラン・ドヴェンカー/ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

謝罪代行社(ハヤカワ・ミステリ1850) (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

謝罪代行社(ハヤカワ・ミステリ1850) (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)

 失業したクリスたち4人の男女は、依頼人に代わって謝罪を代行するビジネスを始めた。仕事は思っていたよりも順調に進み、4人は成功を手にしたかに思えた。ところがある日、彼らの一人が指定された場所に行くと、そこには壁に張りつけにされた女性の死体があった。依頼人は自分の代わりに死体に謝罪し、さらに死体を始末することを仕事として彼らに要求した。彼らのそれぞれ身近で大切な人物たちの写真を添えて……。といったお話です。
 タイトル「謝罪代行社」が本書の根幹的な着想です。ですが、実をいえば、そんなにたいした着想だとは思えませんでした。というのも、苦情処理係あるいはクレーム処理係の外注、あるいは弁護士の和解仲介業をより能動的にビジネスとして行っているようなものだと思えば、そんなに突飛なものとは思えなかったからです。ですが、作中の次のような文章を読んで納得しました。

「他人に代わって謝罪するのが容易だとは誰も思っていない。もし容易だったら、もっと以前に誰かが思いついていただろう。思うに、そのうち教会はおれたちを弾劾するかもしれない。おれたちは罪を許し、暗い心を抱いた人々に光明をもたらすのだからな」
(本書p93より)

 なるほど、教会での懺悔との比較という視点ですか。無宗教者である私のような人間には思いつきにくい発想です(苦笑)。こうした発想が、張りつけになった死体という発想を呼び、さらには、罪と謝罪のたらい回しとでもいうべきストーリーの源泉にもなったのでしょう。
 本書の構成はとても複雑です。「以前に起きたこと」「あいだで起きたこと」「以後に起きたこと」という3つの時間軸が錯綜しています。また、視点描写も、「わたし」という一人称と、「おまえ」という二人称と、それぞれの登場人物の視点で語られる三人称の視点とが混在しています。しかも、「わたし」と「おまえ」がいったい誰なのか分からないまま始まります。また、三人称視点の中にも「現場にいなかった男」という正体不明の「彼」という視点描写があります。いったい、「わたし」は、「おまえ」は、そして「彼」はいったい何者なのか?
 こうした複雑な構成が用いられている理由としては、本書巻末の訳者あとがきの言葉を借りれば、”奇を衒い、型を崩すことがドヴェンガーの目的ではない。こうした独創的な試みは、あくまでも読み手の想像力をかきたて、物語の世界の奥深くへと誘っていくための手立てなのである。”(本書p459より)ということになります。また、謝罪代行社という仕組み上、謝罪主と謝罪を行う者との乖離というのが必然的に生じることになりますが、そうした乖離を、正体不明の人称代名詞を用いることで表現しているともいえます。なので、無意味に奇を衒ったものでないことは間違いないといえます。
 ですが、それにしたって複雑すぎる構成だと思います。真相自体は別に小難しいものではないのですが、だからこそ余計に、もう少し何とかならなかったものかと思わずにはいられません。疲れた……というのが読了後の正直な感想です。
 過去の謝罪、他者の行為の謝罪、責任なき謝罪などなど。ある程度のエンタメ性を維持しながらも、謝罪についてそうしたことを考え得る構成になっている、という意味では巧みだといえます。ただ、エンタメ性が低いのか高いのか、そこがいまいち判じかねます。『どげせん』という土下座をテーマにした漫画もあることですし、謝罪について考えたい人にはオススメかもしれない作品です。

どげせん 1巻 (ニチブンコミックス)

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