『ねじまき少女』(パオロ・バチガルピ/ハヤカワ文庫)

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)

「そこがきみたちの問題だな。きみたちがみんなしてすわりこんでぶつくさ文句を垂れたり夢物語をしているあいだに、わたしはゲームのルールを変えてるんだ。きみたちはみんな、収縮時代の考え方をしてる」
(本書上巻p215より)

 ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞、キャンベル記念賞といった数々の賞を総なめにした話題の作品です。
 本書の原題は”The Windup Girl”。Windup の意味を辞書で引くと、邦題である”ねじ巻き式の”といった意味の他に”結びの”といった意味も出てきます*1。なかなか含蓄のあるタイトルです。一義的には、本書における”ねじまき”とは遺伝子工学によって作られたアンドロイド(新人類)のことを指します。本書の語り手のひとりであるエミコは、秘書兼愛玩用アンドロイドとして日本からタイへ連れられてきましたが、元の持ち主に捨てられ、仕方なくバンコクの娼館で働いています。
 エミコの他に本書には複数の語り手がいます。改良型ゼンマイ開発工場の西洋人(ファラン)オーナー、アンダースン・レイク。その工場で働くイエローカードと呼ばれ、マレーシアから亡命してきた過去を持つホク・セン。環境省検疫取締部隊・通称白シャツ隊隊長で元ムエタイチャンピオン、ジェイディー・ロジャナスクチャイ。その副官で快活なジェイディーに対して無表情な女性、カニヤ・ティラティワット。5人の語り手それぞれに行動原理があって思惑があります。それは交わるものもあれば交わらないものもあります。語り手ではない主要人物も同様です。
 環境破壊の影響で海面が上昇。遺伝子操作の弊害として蔓延する疫病によって病気に耐性を持つ遺伝子操作組み換え作物しか栽培できないため、世界経済はカロリー企業と呼ばれる小数のバイオ企業によって支配されている。石油の枯渇による代替エネルギーとして用いられているのは超巨大ゼンマイですが、そのゼンマイを巻く巨大生物メゴドントの飼料もまたカロリー企業によって賄われている。カロリー企業とバイオテクノロジーが大きな影響力を持つ世界。それが本書で描かれている未来です。エコEFにしてバイオSFです。
 ねじまき、ジーンハック(遺伝子操作)、ジーンリッパー、種子バンク、カロリー病にカロリー企業にカロリーマンなどなど。独自の用語(造語)が疾走することによって描かれていく独自の世界観。まさにSFならではの舞台として選ばれているのはタイの首都バンコク。そこには、3・11後の節電と、現状維持か脱原発かといったエネルギー問題の岐路に立たされている私たちにとって看過することのできない近未来世界が描かれています。とはいえ、原発問題がクローズアップされている現在の日本の見方からすれば、石油が枯渇した世界にあって原子力が扱われていないのが意外といえば意外ですし、自然エネルギーが活用されていないのも意外です。
 「衣食足りて礼節を知る」という言葉がありますが、エネルギー問題によって衣食が不自由なものとなっている世界において起きているのはモラルの崩壊と微妙なパワーバランスによって保たれている危うい秩序です。

 わたしたちは、気まぐれな神の手の内にいるのだ。この男は楽しむためだけにわたしたちの味方をしていて、わたしたちが知的好奇心を惹くことに失敗すると、目をつぶって寝るてしまうのだ。
 恐ろしい考えだ。この男の生きがいは競争だけなのだ。地球規模で戦われている進化のチェスだけなのだ。
(本書下巻p151〜152より)

 バイオテクノロジーに支配される世界。そこでは様々な価値観・ルールがぶつかりあいます。ある者は政治を、ある者は経済を、ある者は正義を持ち込みます。宗教観や倫理観もぶつかります。西洋と東洋の思想の違い。通産省環境省の対立。最先端科学と倫理の問題。そして人類と新人類の関係などなど。ルールが変容する社会にあって、自らの生き様をいかに定め、自らの身を守っていくか。ルールを守る者。その裏をかこうとする者。そして、ルールを変えようとする者。それらが収縮していく結果として生まれる暴走。それは巻き上げられた貯えられたゼンマイの力が一気に開放されるイメージと重なります。
 個人的には、テーマの割りにエンタメしているのが好印象です。オススメです。