『キミとは致命的なズレがある』(赤月カケヤ/ガガガ文庫)

キミとは致命的なズレがある (ガガガ文庫)

キミとは致命的なズレがある (ガガガ文庫)

 強く思い込めば、それは真実になる。過去の記憶がないだけの新しい自分。この日を境に、決して思い出さないように蓋をしよう。
 真っ赤に潰したあの子の顔も、頬に感じる鈍い痛みも。忘れてしまったことは、なかったことと同じになる。
 ぺたぺたぺたぺたテープを貼って、とんとんとんとん釘を打って。決して開くことのない過去の記憶。
 どうか自分を見つけないでほしい。どうか自分を思い出さないでほしい。
(本書p13より)

 第5回小学館ライトノベル大賞優秀賞受賞作。
 いきなりの伏字混じりで思わせぶりな子供の頃の記憶の描写から始まって、そして主人公である少年・海里克也には子供の頃の記憶がなくて。つまりは、「信頼できない語り手」による語りなのですが、その語り手自身が記憶がないゆえに自らのことを信頼していません。そんな不安定な語り手の心理と過去と現在の事件とが織りなすサイコサスペンスです。
 過去の記憶がない主人公ですが、そのこと自体は『麗しき無関心』、すなわち「忘れた記憶=思い出したくない記憶」という一種の防衛本能として作中では説明されています(p96以下参照)。そんな主人公の平穏を脅かすことになるのが、どこからともなく送られてくる「不幸の手紙」。そして、見えるはずのない少女の姿態……いや、死体? 記憶喪失や二重人格(解離性同一性障がい*1)といった心理的要素を理知的に検証しつつも主人公が追い込まれていく過程はなかなかに読み応えがあります。
 「信頼できない語り手」といいますと、一般的にはあまりいいイメージは持たれていないでしょう。ですが、私自身、果たしてどれくらい「信頼できる語り手」なのでしょう? 自分が知ってるはずの自らが主人公の物語に対し、突然99%の信頼度を誇る物語の語り手が現れて、その語り手が語る物語の中に自らの物語とは矛盾する自分が出てきたときに、果たしてその物語に徹頭徹尾抵抗して自らの物語を語り切ることができるでしょうか? 偽りの物語の登場人物に感情移入することで自らの物語を歪めてしまうことが絶対にないと言い切れるでしょうか? 果たして自らの物語を自分自身に「信頼できる語り手」として語り切ることができるでしょうか? 一方で、昨今では大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件(大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件 - Wikipedia)や足利事件足利事件 - Wikipedia)などによって「99%の信頼度を誇る語り手」に対する信頼度が問われる事態になっています。そんな時事的に重要なテーマを含みつつも、よい意味でラノベとしての読みやすさが保たれていることによって社会派臭が適度に中和されていると思います。
 ちなみに、警察官にして主人公の養父でもある人物の名前を「夏彦」というのですが、本書のネタ的におそらくそれは京極夏彦を意識してのものではないかと思います(姑獲鳥的な意味で)。

「運が悪かったと言えば、それは事実だ。否定はできない。けれどもそれを言い訳にするつもりもない。犯罪を取り締まる者が犯罪の片棒を担ぐなど、あってはならないことだ。現に一人の人間が名誉を傷つけられ、命を奪われている。刑事にとって直感は大切だ。直感はオカルトの類いなんかじゃない。人が無意識下で行っている情報処理の結果なんだ。目に見える情報だけがすべてじゃない。俺は、見えていなければならないモノが見えていなかった」
(本書p177〜178より)

 なんのこっちゃと思われた方はもしよろしければ『姑獲鳥の夏』を読んでみればいいと思うよ。

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

*1:「障害」ではなく「傷がい」としている点に作者のこだわりを感じましたのであえてそのままで。