『族長の秋』(ガブリエル・ガルシア=マルケス/集英社文庫)

族長の秋 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)

族長の秋 (ラテンアメリカの文学) (集英社文庫)

 ラテン・アメリカ文学を読んでると「マジック・リアリズム」という言葉に頻繁に出くわすことになるわけですが、私なりに考えるマジック・リアリズムとは、『さよなら絶望先生』のような作風のことを指すんじゃないかと思っています。
 閑話休題です。本書は南米の架空の小国を舞台に独裁者である大統領の孤独を描いた作品です。その基本設定だけでも変わっていますが、文体・構成・エピソードもいろいろと変わってます。
 普通の小説であれば、”私”あるいは”彼”といった一人称もしくは三人称単数形で語られます。ところが、本書は基本的に”われわれ”という一人称複数形で語られています。
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 珍しい形式・文体ではありますが、しかし、大統領という権力者と対応する存在として、国民もしくは市民である”われわれ”ほど相応しいものはないでしょう。専制国家を否定することによって生まれた民主主義国家における国民主権人民主権といった「国民」や「人民」といった概念もまた”われわれ”であることに違いはありません。そういう意味で、本書は専制国家の末路を描いた作品ではありますが、逆説的に民主主義国家のありようを描いているともいえます。非常に素晴らしい着想だと思います。
 そんな”われわれ”によって語られる大統領の姿ですが、”われわれ”というのはあくまで抽象的な存在であって実体のあるものではありません。”われわれ”が語る大統領というのは共同幻想にすぎないといえますし、あるいは周知の事実(とされている)事柄のみに基づいた公約数的なものにしか過ぎないともいえます。ですが、一方で”われわれ”は一人ひとり個別の人間によって構成されてるものです。なので、本書の語りは基本的には”われわれ”という一人称複数視点でありながら、唐突に”わたし”や”おれ”といった一人称単数視点が紛れ込みます。そうした抽象と具象のイメージの往還によって大統領像に奥行きが生まれています。
 また、本作には段落や改行がありません。一応章立てはあるのですが、だらだらとした文章のかたまりです。金玉が痛いといったしょーもない話と腹心をオーブンで丸焼きにして宴会に饗したり子供二千人を船に積み込んでダイナマイトで吹っ飛ばすといったトンデモエピソードが並列的に段落で区別されることなく語られます。そのことが本書の読みにくさの一因を担っていることは間違いないのですが、大統領という個人の人生を考えたときに、こうした描き方はドラマ性を廃した実直かつリアリスティックなものであるといえます。
 時間感覚も独特で、大統領の死から始まる本書は、必然的に過去へ過去へと遡ることになります。そうした時間の逆行のなかで、因と果の関係は相対化され、本書のひとつひとつのエピソードのシュールさをより一層際立たせています。
 本書巻末の中島京子の解説「大統領には名前がない」にて指摘されているとおり、2011年は独裁政権打倒の年として歴史に記録されるでしょう。2010年末に起きたジャスミン革命によって2011年1月にチュニジアのベンアリ政権が崩壊し、その余波は中東各地に飛び火し、2月にはエジプトのムバラク政権も崩壊しました。1975年に発表された本作ですが、テーマ自体は決して古びたものではありません。今だからこそ読んでおきたい一冊です。
【参考】http://book.asahi.com/hyoryu/TKY201006220213.html

*1:さよなら絶望先生』15巻p55より。