『怪盗タナーは眠らない』(ローレンス・ブロック/創元推理文庫)

快盗タナーは眠らない (創元推理文庫)

快盗タナーは眠らない (創元推理文庫)

 最後には、自分でも疑問に思いはじめた。なんで自分の家でおとなしくしていなかったのか、と。
(本書p229より)

 私は本書で初めてローレンス・ブロックの作品を読みました。……などといってしまうと「いやそれより先にもっと読まなきゃいけないものがあるだろ」と怒られそうな圧力を感じるのですが、事実なのですから仕方がありません。もちろん〈マット・スカダー〉や〈バーニイ・ローテンバー〉といったシリーズがあるのは知ってますが、まあいいじゃないですか(笑)。
 ということで、本書は〈エヴァン・タナー〉シリーズ第1作目に当たりますが、実に奇妙なスパイものです。
 主人公のエヴァン・タナーは戦争中に負った頭の傷が原因で睡眠能力を失ってしまいます。以来彼は代わりの時間を外国語能力と知識の習得に努めます。そんなある日、ギリシア‐トルコ戦争時のアルメニア金貨が今もまだトルコ領内に埋もれているかもしれないという情報を入手した彼はそれを確かめるべく旅立ちますが、トルコ領内に入った途端にスパイ容疑で逮捕されてしまいます。逃走して金貨の奪取を目論む彼の行動によっていくつもの国際的事件をが引き起こされることになる……といったお話なのですが、説明するのが難しくて何ともいえない奇妙なお話なのです。
 スパイものの主人公というのはとかくタフで「いつ眠ってるんだ?」といった活躍をするキャラクターが多いです。眠ることができないというタナーの特徴は、そんなスパイものの主人公たちを逆手にとったものだといえます。ストーリー自体も既存のスパイものを逆手に取ったかのような捻った展開を見せるのですが、それが実にシュールです。どうしてそうなるんだ、といったストーリーが抜け抜けと描かれています。
 タナーが数多くの言語と専門知識に通じているのは上述の通りですが、加えて、たくさんの団体に加入するという奇妙な趣味まで持っています。いくつもの主義思想に精通している彼ですが、彼自身にはこれといった主義思想があるわけでもなく飄々としています。その一方でいたって真剣でもあります。
 とはいえ本書におけるタナーの目的は金貨の奪取なのでスパイというよりはタイトルどおり怪盗という表現が妥当ではあるのですが、彼自身の思惑と周囲のそれとがまったく噛み合わないために、結果として彼の行く先々でとんでもない事件が起こることになってしまいます。彼が巻き起こしている事件のはずなのに、いざ事件が発生すると彼はさも自分が巻き込まれたかのような対応をとることで事態を乗り切っていきます。そんな因と果の関係が実に滑稽ですが、その滑稽さにはそこはかとない哀愁も漂っています。
 シリアスなスパイものが好きな方には怒られてしまうかもしれませんが、私はとても楽しめました。