『樹霊』(鳥飼否宇/創元推理文庫)

 『中空』『非在』に続く鳶山と猫田のコンビが活躍するシリーズ第3弾です。
 自然を題材としたネイチャーミステリが本シリーズの売りではありますが、1作目2作目ともに自然というよりは老荘思想や人魚伝説といった思弁的要素の方が強くて、自然との関わりという観点は希薄だったように思います。その点、本書は(架空のお話ではありますが)北海道を舞台に、自然と人間との関係がダイレクトに描かれています。業者や地方自治体の利益とアイヌの文化保護等の理由といった開発推進派と反対派との対立。そのステレオタイプな構造が、あとになって明らかになる驚愕の真相(動機)と絡み合うことで、自然と人間との関係の落しどころについて考えさせられる作品に仕上がっています。
 本格ミステリとしてのフック(つかみ)は、何といっても木々の移動です。土砂崩れによる巨木の移動、繰り返されるナナカマドの木の移動、木の移動による事故死(?)。ブラウン神父の名言「木を隠すなら森」はミステリ界では珍重されていて数多くの作品で出てきますが、では、本書における木の移動にはいったい何が隠されているのでしょうか。冒頭にチェスタトン*1の『驕りの樹』の一文がエピグラフとして付されていることからも分かるように、本書はチェスタトンらしくもあり鳥飼否宇らしくもある逆説的な論理に満ちています。
 本シリーズは写真家である猫田がワトソン役で、自然観察者である鳶山が探偵役という構図になっています。物事を客観的に見るという点において本来であれば写真家の目線で不足があるとは思いませんが、にもかかわらず、本シリーズは写真家がワトソン役に配されています。それは、物事を客観的に見るということの困難さを示すと同時に、それができさえすれば事件の真相も自ずと明らかになる、というスタンスの表明でもあるのでしょうね。
【関連】
『中空』(鳥飼否宇/角川文庫) - 三軒茶屋 別館
『非在』(鳥飼否宇/角川文庫) - 三軒茶屋 別館


(以下、既読者限定で動機についての蛇足を。)
 本書で特筆すべきなのは、木々の移動といった不可思議現象もさることながら、何といっても真犯人の動機でしょう。
 吉兼佳代子は弁護士にして筋金入りの自然保護活動家です。その彼女が専門としている「自然の権利」、自然の権利訴訟といった問題は、作中でも触れられているとおり(p130参照)、実際の裁判でも「アマミノクロウサギ訴訟」として話題となりました。
 元来、民事訴訟というのは個人の権利に基づいた訴えを解決することを目的としています。そのため、自然の保護を民事訴訟という形式でセオリーどおりに提起しようとすると、どうしても訴訟当事者の利害に絡めなくてはなりません。そこで考え出されたのが「自然の権利」という考え方です。すなわち、人間を権利主体とするのではなく、自然そのものを主体とする考え方です。そうした考えに基づき、「アマミノクロウサギ訴訟」ではアマミノクロウサギを権利主体(原告)として訴えが提起されました。もっとも、訴え自体は原告不適格(平たく言えば、人間もしくは法人が原告じゃなきゃ駄目ですよ)とされました。まあそれは至極もっともな結論だと思いますが(笑)、人間ではなく自然を主体とするのが「自然の権利」という概念の画期的な点なのです。
 こうした「自然の権利」といった考え方を推し進めると、「自然から人間を排斥すべし」といった本書の犯人の主張はあながち無茶なものとはいえません。「自然の権利」という概念にはそうした過激さが内包されているのです。なので、一理しかない考え方かもしれませんが、それでも一理は確かにあるのです。開発推進派と反対派の対立において両者の折衷案によって問題解決が図られようとする中で、「自然の権利」のもっとも過激な考え方を持ち出すことによって、本当の折衷案とは何かを再度問い直される構成には感心させられました。
【参考】コラム - 緑のgoo

*1:『ブラウン神父』シリーズの作者。