『泰平ヨンの航星日記』(スタニスワフ・レム/ハヤカワ文庫)

しかし異星の客人よ。拙僧の話を聞かれても、我々とは違った歴史によって創られた貴殿らの考えかたを棄てないでもらいたい。
(本書p381より)

 何とも人を食ったお話です。まずのっけからの「序文」「第三版への序論」「増補改訂版への序文」といった書き出しに意表を突かれます。メタな趣向はテキストの信頼性という問題を提起します。
 そんな泰平ヨンの航星日記は第7回から始まって、しかもところどころに抜け番がありますが、その理由は様々です。電子式テキスト分析法によって偽書と判定されたというくだりはまるで現代のブログによる日記テキストを彷彿とさせるもので、言われてみれば確かに当ブログだって「私」が書いてるということを保証するのはかなり困難ですが、しかしそもそもこのテキスト(第三版への序論)は1966年に書かれたものです。このように、本書はSFの古典でありながらも古臭さをまったく感じさせない新しさに満ちています。
 抜け番になっている理由としては。そのほかに契約上の理由(笑)とかもあったりするのですが、記録者である泰平ヨン自身が述べているものとして「空間の旅もあれば時間の旅もあるからだよ。だから第一回の旅もありえないわけだ。」(本書p266より)といったものもあります。それはそれでもっともな気もしますが、だとしたらナンバリングそのものが不可能になるはずで、そんな理不尽や不条理が衒学趣味の中のユーモアとしてしれっと盛り込まれています。
 とはいえ、何を真面目に受け取って何を笑うかの判断は一度考え出すととても難しくて、なので本書を読むのにかなりの時間がかかりました。それでいて考えただけのものが得られたのかといえば甚だ疑問ではあるのですが(笑)、そんな疑問そのものが本書の魅力なのだと思っています。
 本書は連作短編形式ですが、たくさんのテーマが詰め込まれています。それは上述のように時空や空間を飛び越えたり、はたまた宇宙人やロボットといったSFの定番ともいえるものから政治や宗教といった普遍的なものもあって本当に様々です。個人的に印象に残っているのは、共産主義的な思想を斜め上に推し進めた「第13回の旅」と”信仰とは、絶対に必要不可欠なものであると同時に、まったくありえないものでもあります”という矛盾した要素を取り込んだ”二信教”とは何なのかを追い求める「第21回の旅」ですが、他の記録もぶっ飛んでます。時間旅行ものであれば無数の時間軸のヨンが一同に会するというギャグ漫画みたいなお話もあれば、歴史を改変してるんだか作ってるんだか分からないもあったりします。宇宙人が出てくればヒトという当たり前の事柄が否定され、ロボットが出てくれば生きるとは何か、自由とは何かが問い直されます。倫理とか常識を逆手に取った一筋縄ではいかないものばかりです。
 珍無類の思考実験集としてオススメの一冊です。