『玻璃の天』(北村薫/文春文庫)

玻璃の天 (文春文庫)

玻璃の天 (文春文庫)

 北村薫は〈ベッキーさん〉シリーズ第3作『鷺と雪』で第141回直木賞を受賞しましたが、本書はその〈ベッキーさん〉シリーズ2作目に当たります。
 ミステリには自由な発想と合理的な思考が魅力のジャンルです。昭和初期という後に太平洋戦争を迎える難しい時代。思想や信条、表現の自由といったものが徐々に厳しく制限されていく時代だからこそ、ミステリのそうした精神は映えます。
 ベッキーさんこと別宮が運転しているのはフォードですが、昭和初期を舞台としたミステリでフォードといえば、広瀬正『マイナス・ゼロ』などが思い浮かびます。広瀬正は庶民の視点から昭和初期の時代を描いていますが、本シリーズでは上流階級のお嬢様の視点から描かれています。そうした対比によって本書を読み解くのも一興だと思います。

幻の橋

「――どこの国にいつ生まれようと、どのような考えを持とうと、人間は尊いものであるという……」
(本書p60より)

 35年前の新聞に掲載された偽りの死亡広告。犬猿の仲であった両家の令嬢と子息との間の”ロミオとジュリエット”をきっかけとした仲直りの席で起きた絵画消失事件。時代を超えてかかる橋と、かからない橋。そうしたミステリパートもさることながら、英子と若月との間での、国家の大義と個人の自由といった主義主張についてのやり取りが印象に残ります。

想夫恋

 こういう一点から、人は様々なことを考え出すものだろう。例えば、《あたし達》という存在は、小は家庭から、大は国家、そして世界に囲まれている。そこに映る自分を、どのように見つめるかは、大変に難しいことだろう。
(本書p101より)

 『あしながおじさん』を契機とした英子と綾乃とベッキーさんの間で交わされる文学や音楽や映画に談義はその時代の文化というものを活き活きと読者に感得させつつ、いかにも北村薫らしい衒学趣味に満ちていますが(笑)、そこにもやはり戦争へと向かう時代の流れが影を落としています。

玻璃の天

 人間のごく当たり前の思いを、率直に語れる世であってほしい。だが、そのことが愛する人達を苦しめる世だとしたら、どうすればよいのか。
 考え出すと、底知れぬ泥沼に足を踏み入れたような気がしてしまう。
(本書p160より)

 ステンドグラスに彩られた雪密室。その裏に隠されているのは、紛うことなき《私》の恨みです。ミステリとしてこれだけ魅力的な謎を作り出しておきながら、それをあくまで踏み台として配しているのが本作の真価です。
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